ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まり、約一か月が経ちました。いまだ止まないロシアの攻撃に市民の犠牲者が増え続けるなか、ウクライナの大統領・ゼレンスキー氏は「ロシアは自由に対する戦争を開始した」と、世界中の人々に自由が重要であることを訴えかけました(BBCニュース:ウクライナがロシア軍を一部「押し戻す」、ゼレンスキー氏は「ロシアへの抗議」世界に訴え 侵攻28日目 より)
私たちが無意識に享受している「自由」の価値とは何なのか? いま、あらためて考えたい「自由」について、社会学者の西田亮介さんにお話をうかがいました。
※本稿は、『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください』(西田亮介)の一部を抜粋し、再編集しています。
自由とはどういう状態か?
自由を巡っては、「消極的自由」と「積極的自由」という有名な概念があります。これはアイザィア・バーリンという人が導入した区分です。普段、漠然と「自由にしたい」などと言いますが、簡単に言えば、前者の「消極的自由」は権力などから抑圧されない自由で、後者の「積極的自由」が何かをなす自由です。どちらも重要ですが、少し考えると両者には差異があることに気づきます。
「消極的自由」は、権力が恣意的に国民を弾圧したりするような社会は仮に経済的にいくら豊かだったとしても「自由」と呼ぶことはできないということを物語っています。これはわかりやすいですよね。
「積極的自由」はたとえば、あなたが将来、ユーチューバーになりたいとして、実家の家業や年収と無関係にユーチューバーになれる(可能性が開かれている)ような場合に使われます。日本にいると「当たり前じゃないか」などと思えるかもしれませんが、そうでもありません。YouTubeやTwitterといったSNSが遮断されたり、監視されたりしている国もあります。格差があまりに大きかったり、階級や伝統的差別がいまでも残っている社会もあります。そうした社会では貧しい人は貧しいままかもしれないし、「こんな仕事に就きたい」と思っても、家業を継ぐ以外の選択肢がなかったり、学歴を積むような機会がなかったりすることがあります。
果たしてそれは自由と呼べるのか?
日本でも4年制大学の進学率を例にとると、一貫して男女間格差、都市/地域間格差を見出すことができます。劣位に置かれた人たちにとって、日本社会は果たして自由な社会と言えるでしょうか?
社会学でも社会の中に選択肢が実際に存在していることと、それらを実際に選択できる状態になっていることが重要と考えます。でも、皆が完全に同じ状態になっているようにすべきなのか、「完全」とはどの視点に立ったときか、安全な状態を達成できたとして幸せな社会か、さらにコスト(税金)に制約があるときはどうするのか、など数多の論点が広がります。
どうすべきでしょうか? これらが価値と資源に優先順位をつけ、どう割り振るか、その割り振り方をどのように決定するのかという問題と関係しているのか、そのような想像力を持つと急に政治の話につながっていきますね。
さらに「共生」を重要視するなら、自分と異なる主張や立場の人たちも極力自分と同様にふるまうことができるように権利保障がなされている状態が、比較的公正度の高い状態と言えるのではないでしょうか。先の大学進学率の話で言えば、都市部の4年制大学を卒業した人たち中心で、「人口が減少していく日本では、いまの大学数は多すぎるから減らそう」などと議論しがちですが、果たしてそれは公正でしょうか。
「公正な自由」とは何か?
次に、自由について具体的な問題にフォーカスします。同性やLGBTQの人たちも婚姻できるようになれば(現状、日本の制度では実質的に認められていませんが)、結婚には実質的にさまざまな優遇措置もありますから、多くの人がより公正な状態に置かれると言えるかもしれません。そのためには単に法律などの制度を整備するだけではなく(現状はそれすらできていないわけですが)実際に必要な手続きの間の格差や差別がないかどうかも重要になるでしょうね。
それから世の中に、「同性同士の結婚はあまり好ましくない」といった規範や言説がたくさん流通しているような状態も、やはり公正とは言えないでしょう。規範や固定観念はマジョリティにとってはあまり気にならないかもしれませんが、いろいろな影響を与えることが知られています。
いまでも地方や高齢世代などのあいだで「女性に高学歴は必要ない」とか「女性で理系はちょっと……」などの古い観念は現実に残っていますし、実際の障壁になっています。たとえば象徴的な例として東京大学を挙げると、東京大学の学部生における女子学生の比率は2割、大学院生で3割、女性教授も2割です。他にも、一般に文系において女子学生の比率が相対的に高いことが知られていて、東大でも理系学部や、その他の理工系の大学などではもっと極端な例もあります。日本の男女比と考えると現状は何かがおかしいですよね。「アファーマティブ・アクション」と言いますが、格差への積極的介入は日本でももっと検討されるべきです。
規範と現実は合わせ鏡です。規範は現実に影響を与え、現実も規範に影響を与えます。もちろん自由や平等、公正について完全に達成された状態を想像するのはとても困難です。絶えずいろいろな新しい概念が出てきたり、急に重要視されたりすることでしょう。アンテナを張り続けることが大切です。
自由はいつも脅かされている
さらに、自由については、いつも脅かされていると考えるべきです。
たとえば、「表現の自由」に関しても、いろいろな理屈や事情で制約をかけようという声があがります。ビジネスと衝突する場合などに、悪意なくそういう声が出てくることもあります。安全保障に関係する場合や、危機の最中においてもそういうことが生じがちですね。たとえば私権制限を求める世論の声は、コロナ禍の中で高まっています。
「表現の自由」の場合は、海賊版サイトに対するアクセス遮断を求めるという形で、制約をかけようという声が根強くあります。出版社などからでさえ、利益直結の権利侵害を受けているので実施するべきという声をよく聞きます。でもこれは憲法上、重大な問題があると考えられていてできません。重大な問題とは何かというと、「通信の秘密」の侵害です。海外にある違法アップされた漫画のサーバーにアクセスするリクエストだということを識別するためには、それ以外のものも含めたリクエストを見ないと区別できません。つまり、それは検閲です。「通信の秘密」を暴くことは検閲であり、「表現の自由」を侵害する。だから実施されないわけです。
一度失われた自由を取り戻すのは難しい
また、表現の自由もそうですし精神的自由に関してよく言われるのは、不可逆性についての指摘です。一度損なわれてしまった表現の自由や精神的自由は、取り戻すことはできないかもしれないという懸念です。
たとえば、「知る権利」や「表現の自由」に制約を課すと、政治的選択などについて制約が生じて、ある政党や個人の独裁になってしまう懸念があるので、表現の自由や精神的自由は、他の自由に比して尊重するべきだと考えられています。「二重の基準」などと言われています。独裁から自由民主主義に変わるのは、どの国を見てもとても難しいですし、革命に際して多くのコストを払うことが多いです。なので、もちろん権利が衝突するような場合には対策を考えなければならないのですが、これらの制約はとにかく慎重にやりましょう、最小限にしましょうと考えられてきました。
人々はある意味無邪気に、自ら「自由を捨てたい」と言い出したり、すでにある権利を制限するべきだと言い出したりします。それらの言動は、実はいつの時代もあることです。その声に後押しされる政治的勢力もあります。歴史的に見ればファシズムや全体主義と結びつきがちで、そうした声については、背後の価値観に目を向けながら慎重に扱うべきだということになります。いまも危機に乗じて、コロナ対策のためということで、私権制限を望む声があります。もちろん場合によっては必要ですが、慎重に考える必要があります。
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記事はこちら:「SNSの『世論』で政治は動きますか?」|西田亮介さんが教える民主主義とメディアの授業
西田亮介(にしだりょうすけ)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は社会学。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。著書に『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』(朝日新聞出版)、『不寛容の本質 なぜ若者を理解できないのか、なぜ年長者を許せないのか』(経済界)、『メディアと自民党』(角川新書、2016年度社会情報学会優秀文献賞)など。