夏の甲子園を目指す全国高校野球大会・地方予選がはじまりました。甲子園の常連である強豪校は、大会前に多くの練習試合でチームを強化しますが、意義のある試合をするためには対戦相手も大事。西東京の名門、日大三高を率いる小倉全由監督によれば、「お願いしてでも対戦したい学校」がある一方、「二度と対戦したくない学校」も確実に存在するとか。それぞれ、どんな特徴を持つチームなのでしょうか──。
※本稿は、小倉全由『「一生懸命」の教え方 日大三高・小倉流「人を伸ばす」シンプルなルール』の一部を再編集したものです。
お願いしてでも対戦したい学校
36年以上の監督人生を通じて、数多くの学校と公式戦や練習試合を戦ってきました。そこでここでは、深く感銘を受けたエピソード、あるいは反面教師としてとらえさせていただいたことなどについて、お話しします。
これまでの私の高校野球の監督という経験のなかで、「私のほうからお願いしてでも対戦したい学校」と「二度と対戦したくない学校」というのは、確実に存在しています。
「私のほうからお願いしてでも対戦したい学校」は、元気はつらつとして、マナーのいい学校です。これまでに甲子園に出場したことがある・なし、もしくは強豪の私立校なのか公立校なのかはいっさい関係ありません。
グラウンドに出たらキビキビと動き、きちんと挨拶ができる。そして、試合中もよく声を出して、たとえ劣勢でも最後まであきらめずに、一生懸命、必死になってプレーする。本来であれば、このことは野球がうまいかそうでないかにかかわらず、誰にでもできることのはずですが、おろそかになってしまう学校も意外と多いものです。
なかでも私が、「何度も練習試合をお願いしたい」と思える学校は、千葉の志学館(しがくかん)です。千葉県木更津市にある私立校で、ここの選手はグラウンド上で活気よく声を出して、いつ試合をしてもパワーをもらって帰るのです。
決してあきらめないチームにパワーをもらう
チームを指揮していた川俣幸一(かわまた こういち)監督は、私の日大三高時代の後輩であり、当時監督だった小枝守(こえだ まもる)さんの下で一緒にコーチを務めていた間柄です。三高を離れてからは、拓大紅陵に進んだ小枝さんの下で野球部の部長を務め、84年春夏、86年春夏の合計4回、甲子園の出場を果たしました。
その後、志学館の監督となり、94年夏の甲子園に出場しています。青山学院大学から96年のドラフト1位で広島に指名された澤崎俊和(さわざき としかず)投手は彼の高校時代の教え子で、ルーキーイヤーの97年には新人王を獲得するほどの選手を輩出したことでも知られています。
川俣監督は、どんなに劣勢になってもあきらめないで食らいついていく野球を、選手全員に浸透させています。練習試合でどんなにこちらが大量得点でリードしていても、終盤になると四死球や連打などで3点、4点を返され、「ここでひっくり返されるんじゃないか」と、ヒヤヒヤしながら采配をふるったこともありました。
高校野球で大切なのは、「何が何でも勝とう」という強い気持ちもさることながら、どんなに劣勢でも、試合をあきらめない姿勢を最後まで見せることです。志学館は対戦するたびに必ずこの2つを見せてくれるので、毎年のように練習試合を申し込んでいました。
川俣監督は19年夏に監督を退任されましたが、後任の久保山政志監督も川俣監督のかつての教え子ですから、彼のスピリッツを受け継いでいるものと信じています。
試合中の意味のないペナルティ
反対に、二度と対戦したくない学校というのは、マナーの悪い学校、覇気の感じられない学校はもちろんのこと、「チームの士気を下げる学校」も問題視しています。
あえて学校名は伏せますが、問題の学校と練習試合をやったときのことでした。相手の攻撃でワンアウト一塁という場面でランナーが盗塁をした際、セカンドベース上でタッチアウトになったのです。すると、アウトになった選手を、その学校の監督がベンチ前に立たせ、叱りました。
「なんであんな弱々しいスライディングをしたんだ! もっと激しくいかなきゃダメな場面だろうが!」
そして、次のイニングの守備機会からその選手を交代させて、あろうことか試合中に延々とベンチ前でスライディングの練習をさせていたのです。あたかも、「ウチのチームは試合で失敗すると、こうした練習を繰り返しさせますよ」と見せつけられているかのようでしたが、私にしてみれば、選手の士気は下がれども、上がるようなペナルティではないなと、正直スライディングをさせられている選手が気の毒に思えてきたのです。
練習試合の意義とは
攻守が入れ替わり、イニングが進んでいってもひたすらスライディング練習を続けさせていました。次第に三高の選手からも、「いい加減、やめさせてあげないとかわいそうですよね」などと心配する言葉が口をついてくる有り様で、結局、最終回を迎えるまでの1時間弱、延々とスライディングの練習が続けられたのです。
こうしたことは、何もスライディングだけに限りません。バッティングや守備で選手が何かミスをしたときには、必ずと言っていいほどその監督は選手を叱責し、グラウンド上で何らかのペナルティをこなすように指示をしていました。
私はそうしたやり方をよしとはしていなかったので、この監督を反面教師としてとらえていたのですが、あまりにも幻滅することが多かったので、結局、練習試合そのものをお断りするようになったのです。
この学校は甲子園に何度も出場しています。輝かしい実績を残されていたこともあり、これまでにも数年の間は練習試合を行なっていましたが、「選手がやる気をなくすようなペナルティの与え方」しか学ぶものがなくては、試合をする意味がありません。
実力のあるなしにかかわらず、「三高の選手にとっても学ぶことが多いチーム」と練習試合を行なうことは大きな意義があります。反対に、選手の士気を下げるようなチームだと、どんなに強豪と言われるチームでも絶対に試合を組みません。
この方針を今後も貫いていくことが、選手の心・技・体を成長させるうえでも重要なことだと考えているのです。
著者プロフィール
小倉全由(おぐら まさよし)
1957年、千葉県生まれ。日本大学第三高等学校教諭、同校硬式野球部監督。春夏を通じて甲子園出場通算21回(関東一高で4回、日大三高で17回)、甲子園通算勝利数37勝(歴代9位・いずれも2021年6月現在)を数える高校野球界有数の名将。自身が日大三高在学時は内野手の控えとして甲子園を目指すも、3年生最後の夏は東東京予選の5回戦で敗退。日大進学後、日大三高のコーチに就任し、79年夏の選手権大会への出場を果たす。81年に関東第一高等学校硬式野球部監督に就任。85年夏の選手権大会で初出場を果たしベスト8、87年春のセンバツでは準優勝に導く。88年に監督を辞任し、野球とは距離を置くも、92年12月に同校硬式野球部監督に復帰し、94年夏に9年ぶりの甲子園出場に導く。97年、母校である日大三高に移って硬式野球部監督に就任。2001年夏の選手権大会で甲子園歴代最高記録(当時)となるチーム打率4割2分7厘を記録、同校初となる夏の全国制覇を達成。10年春のセンバツでは自身2度目の準優勝、11年夏の選手権大会では、自身2度目となる夏の全国制覇を達成した。選手に「熱く」「一生懸命」を説く指導が評判で、近年は選手を「ほめて伸ばす」指導も実践している。