毎日現代人に押し寄せるのは終わりのない「多忙」です 。みな疲弊しつつも、もっと早く、もっと多く対応できるように切磋琢磨しています。しかし、多忙であることは「効果的」であることを意味しません。しかも、そんな日々を続けていてはやがて疲労困憊し、燃え尽きてしまうでしょう。
本書では「する Doing」という行為の限界と危険性に着目し、「無為 Not Doing」について考察を深め、現代の多忙さに、しなやかに、サステナブルに対峙する方法を検証します 。
話題となった前作『「無知」の技法 Not Knowing』に続く、気鋭のコンサルタントによる最新作『「無為」の技法 Not Doing』CHAPTER1から、一部を再編集のうえ公開します。
『エフォートレスな行動で、能力を最大化する 「無為」の技法 Not Doing 』CHAPTER1「流れに任せる」より
「しない」の再定義(リフレーミング)
世界があなたの声を聴かなくなってしまったら
沈黙する大地に伝えよう。「私は流れている」と。
ほとばしる川に呼びかけよう。「私はここにいる」と。ライナー・マリア・リルケ(詩人)「オルフォイスに捧げるソネット」(第二部29)より
私たちは、社会学者ジグムント・バウマンが「液状化した現代(リキッド・モダニティ)」と呼んだ世界に生きている。バウマンはこう論じた。「現代では、このパターンが定型、その構造で自明、ということにはならない。ただ従っていればいいというものもない。あまりにも多くのパターンや構造があり、互いにぶつかり合っている。あるパターンの法則は、別のパターンの法則と矛盾する」
現代社会の複雑さや不確実さと折り合っていくのは難しい。遠い昔に新たな土地と財宝を探して海に出た冒険家のように、私たちは不安定な潮に揺られている。ビジネスの現場も流動的だ。常に落ち着かず、変化しつづける。地球の生命線である川と海がときに圧倒的な猛威を振るい、氾濫し、深刻な損害をもたらすように、私たちは現代社会の海流に翻弄され、川の濁流に押し流される。荒々しく、どこへ運ばれるかもまったく予想できずに。
不安定な私たちは、たとえばこんなふうに感じている。
「最善を尽くしているのに、進捗の手ごたえがない」
「とりあえず何とかしておきたい、とにかく行動を起こしたい」
「主導権をとりたい、自分たちのアジェンダを通したい」
「プレッシャーを感じる、すぐに対策をとらねばという危機感がある」
「不安や怒りなど、激しい感情にのみこまれてしまう」
「ひどく忙しい」
「考えている暇はない」
「急がなければ。時間がない」
「現実を直視したくない」
「くたくただ、燃え尽きてしまった」
「喜びも満足感もない」
こんな思いがつのるのは、自分と自分が属しているシステムのあいだで、行動のダイナミクスが食い違い空回りしているからだ。波に乗れずにもがき、押しのけ、抵抗し、何とかねじ伏せようと苦戦していると、へとへとになって心身の健康を壊してしまう。生活のあらゆる面にマイナスの影響が生じてくる。
波が私たちを翻弄し疲弊させるとき、海流があまりにも強くて方向すら見失うとき、波間に顔を出していることすら苦しいと感じるとき、誰でも岸壁にしがみつきたくなる。けれど、確固たる陸地という安全は幻だ。川や海の動きが凪ぐことはない。私たちがその流れを手なづけたり避けたりすることはできない。
私たちに必要なのは、岸にしがみつこうとする手を放し、取り巻く世界の自然なエネルギーに乗ってみることだ。学び、そして成長していくために、海の潮に、川の流れに、その動きに身を任せてみる。エネルギーを受け入れ、リードに従ってみる。本書では、これを「しない(Not Doing)」と呼ぶ。
しないと聞けば、思い浮かぶのはこんな連想だろうか。
・空虚、空疎
・達成しない
・孤独
・人任せ
・能力不足
・失敗
・時間の浪費
・生産性がない
・価値を生み出さない
・大事な存在ではない、適した存在でもない
著者である私たちが意図しているのはこうしたことではない。しないというのは、不安や無気力、決断力のなさから生じる行動の欠如ではない。放棄や逃避という意味で人任せにすることとも違うと思っている。
しないというのは、物事をやりこなす方法を狭い視野で見ないための防御手段だ。押すことでもなければ引くことでもない。逆らわず、ゆだねて、ともに歩いてみる。そうすることで力みがとれ、自分がかかわっている状況に対して意識が開く。多くの場合、このほうがより速く、より安全に目的地にたどりつき、しかも持続的な成果が得られる。
強硬に押していくだけでも結果は出るかもしれないが、気づいたら間違った場所に到着していたり、途中で自分と他人に無用な痛みや苦労を背負わせているかもしれない。
自然の素材だけを使ってアートを生み出すイギリス人の芸術家、アンディ・ゴールズワージーは、自然の流れがひとりでに見出す均衡に作品をゆだねている。彼の作品は静止画ではない。その景色の中に開いているパターンや道筋をたどる体験が、ゴールズワージーのアートだ。
生態系をコントロールしようとしない。抵抗しない。危害も加えない。ただ作品の材料を置き、周囲の環境がそれに意味を与えるままにする──「コンテキスト(背景、文脈、前後の流れ)」がカギなのだ。意図的な操作をしないことで、その場の輪郭をたどり、流れに乗っていく。働きかけを最低限に抑えると、答えはひとりでに雄弁に語りだす。
強引に道を築かなくても、野生の馬やウサギが歩いた道をたどって新しい土地に行き着くことがある。これも「しない」というアプローチだ。高度な数学的知識をもっていた古代ローマ人も、その知識で道を設計したのではなく、ロバに山間をのんびりと歩かせ、砂に残る足跡をヘンゼルとグレーテルのようにたどって進路をつくったといわれている。道を見つけるのは自然のほうだ──人の役割は、それに沿って歩いていくことだ。
積極的に行動しないほうが好ましいだなんて、ばかげていると思う人もいるだろう。世間でいわれる成功の価値観には合わないし、達成感についての一般的な想定にも合致しない。しないという選択に気づく手前で、私たちはまず先端(エッジ)にぶつかってみなければならないのかもしれない。そして、その先の延長線はすでに切れていることに気づく。
しないよりするほうがいいに決まっているという発想は、現代ではもはや成り立たないのだ。とにかくやっつければいい、押しつづければいいという戦略は、現代の私たちを取り巻く新しいコンテキストにはおそらく通用しない。
岸壁にしがみついたままではいられない。固く握りしめた手を放し、流れの中心へ行ってみるべきではないか。
しないでいるためには、自分は他者の力が作用する世界にいる、ということを理解する必要がある。自分の働きかけ以外、ほかのすべてのものが静止して待ってくれるような、そんな無菌空間で人は生きているわけではないからだ。取り巻く環境とかかわり、乗っかり、後押しを受けて暮らしている。私たちに必要なのは身構えず、無理に押し通そうとせず、エフォートレスに受け入れていくことではないだろうか。泉から海まで流れていく川のように。地面の凹凸に身を沿わせて進んでいく蛇のように。
しないというのは、複雑でダイナミックで相互に結びついたシステムの中で、その流動的なプロセスに向き合うことだ。私たちがどんなふうに生き、周囲の世界や人々とどんなふうにかかわっているか、そこに意識を向けられるなら、生命のエネルギーと足並みをそろえられる。
大海原に船を出す冒険家のように、私たちも潮の流れに乗っていけばいい。合気道の師範のように、抵抗を受け流し、その力を活かした動作へと転じていけばいい。河川保全員のように、水のエネルギーに親しんでいけばいい。
(ダイアナ・レナ―/スティーブン・デスーザ 著 上原裕美子 訳)