ガブリエル・〈ココ〉・シャネル
Gabrielle Coco Chanel(1883〜1971)
女性の自由と自立を体現したイノベーター
没後半世紀経っても、ガブリエル・〈ココ〉・シャネルの人気は衰えない。その人生を描く映画や舞台が、いまなおエンターテイメントとして享受され、すでに世界中で出版されているおびただしい数の伝記本・名言本は、なおその数を増やし続けている。
ファッションの力によって、修道院で暮らす孤児からホテル・リッツに住まう富豪へと駆け上がった〈マドモワゼル〉・シャネルの生涯の、どこをどう切り取っても興味深く、インスピレーションに満ちているからにほかならない。シャネルが20世紀に生み出したファッションは、一人の女性としてのシャネル、ひいては、シャネルが送った人生そのものと切り離して考えることは不可能である。
白と黒のモノトーンの組み合わせを生んだ、孤児として過ごした修道院時代の記憶。「貧しい素材」と呼ばれたジャージー素材をハイファッションへと格上げした大胆さに潜む、上流階級に対するリベンジ意識。メンズライクな服を生んだ、最初の愛人エティエンヌ・バルサンや最愛の恋人アーサー・〈ボーイ〉・カペルとの複雑ないきさつ。ロシアン刺繍のヒントになった、ロシアの亡命貴族ディミトリー大公との愛。香水「No.5」に濃厚な影響を与えた、作曲家ストラヴィンスキーとの情愛。本物と偽物をミックスするコスチュームジュエリーの着想を与えた、6年越しの恋人ウエストミンスター公爵から贈られた豪華な宝石類。
ほかにもさまざまな作品に、ピカソ、ルヴェルディ、ビスコンティ、ジャン・コクトーなど、時代の寵児であった芸術家や著名人との恋愛あるいは交流の影響が及んでいる。
作品が生まれたそんな背景を知れば知るほど、彼女の波乱に満ちた人生そのもののほうへと関心が惹きつけられる。
孤児からスタートした波乱の生涯
シャネルは孤児として修道院で育ち、お針子からキャリアをスタートさせる。芸能で道を立てようとしたこともあるが、愛人の援助により起業し、帽子ビジネスを始めて成功する。ヨーロッパ一の富豪をはじめ当時の著名人たちと恋愛遍歴を重ね、セレブリティ(著名人)との友情をはぐくみながら7カ国にまたがるネットワークを築き上げた。
女性の現実に即した革命的デザインによって世界的なデザイナーとして成功し、戦後の15年ほどの亡命の期間を経て(大戦中には敵国のドイツ将校と愛人関係にあったので、戦後は身を隠す必要があった)、70歳で奇跡のカムバックを果たし、結婚はせず、生涯を終える直前まで仕事を続けた。
女性の「身体」を解放したデザイン
シャネルのファッションは、そんな驚異の人生の一瞬一瞬から、あたかもそれが必然の果実でもあるかのように生まれたものばかりである。19世紀的な価値を皆殺しにする機能的なファッションばかりだが、そこには当時の上流階級に対するリベンジ意識も潜んでいた。パリの上流階級は、シャネルの店で高価な服飾品を買いながらも、シャネルがどんなに富裕になろうと「孤児から愛人の援助をきっかけに成り上がった」女を仲間に入れようとしなかったのである。
そんな複雑な人生の成果としてのイノベーションが、20世紀の女性の現実に応え、21世紀に入ってなお輝きを失っていない。
バッグにショルダーチェーンをつけたのは両手を自由に使うため。キルティングはキズや汚れを目立たせないようにするための配慮。ベージュと黒のツートンの靴は、ベージュによって足を長くセクシーに見せながらも、汚れやすいつま先を黒にしたトリック。シャネルスーツの上着の裾に仕込まれた鎖は、手を上げても縦のラインを滑らかに保つため。リトル・ブラック・ドレス(装飾を最小限にした黒いシンプルなドレス)は、「黒は喪服の色」という当時の通念を転覆する革命モードであると同時に、アクセサリーをつけ替えれば着替えに戻る時間を省いて昼も夜も着続けることができる、という利便性追求の賜物。本物と偽物をミックスするコスチュームジュエリーは、アクセサリーの可能性を広げると同時に、本物至上主義をふりかざす上流階級の価値観を時代遅れにした。
自由意思を持って働き、自立し、自分自身の尊厳が保たれる価値観を反映したファッションアイテムは、人生を能動的に生きたいと願う女性の定番となった。おびただしい量のコピー製品が市場に出回ることになったが、シャネル自身は、「模倣されるのは本物である証」として動じなかった。
自由に生きたシャネルが手に入れたもの
女性の経済的自立などほとんどあり得なかった時代に、孤児だったシャネルは、起業し、世界的な成功を収めた。華麗な恋愛遍歴や社交生活の陰には、別れの苦悩や裏切りによる絶望もあった。自立にともなう孤独感も痛いほど味わったが、それでもシャネルは、自分の人生を自分の望むままに生き、望む男を恋人に選び、着たいと思う服をデザインする、という主体的な生き方を選び、それを貫いた。
波乱万丈の生涯は、それが幸福だったかどうかという俗的な基準すら無意味にしてしまう。人生をまるごと仕事として、あるいは仕事をまるごと人生として生きたその姿勢は、「ワークライフバランス」という議論すら軽く吹き飛ばしてしまう。
シャネルが生きた時代よりも女性ははるかに自由な選択を許されるようになったが、ありすぎる選択肢を前に女性はかえって萎縮し、遠慮あるいは混乱しているように見えることもある。
適度に割り切って仕事をこなし、私生活もほどほどに充実させてのんびりと暮らす、という「幸せ」を目指すことも当然、大切であろう。ただ、仕事もプライベートも融合して、すべてを仕事に還元する覚悟で臨んだ人生の暁には、予期せぬブレイクスルーや、本物のイノベーションが待っていることをシャネルは示唆するのである。