人と比較する人生か?

さらに、もう少しだけ、書きにくいことも書いておこう。世間というか人間というのは、努力をすれば必ず報われる、というものではない。努力をしても、上手くいかない場合が必ずある。また、努力をしないでも、そこそこの成功を収める人もいる。これは不公平ではないか、といえば、そのとおり、不公平だ。世の中も自然も、不公平にできている。だからこそ、「公平」というルールを作って、人間社会を改善しようとしているのである。

能力が低い場合には、その分時間をかけて人よりも余計に努力をしないと、同じ目的に到達できない。だが、これを「損」だと考えるかどうかは、人によって異なる。他者と比較をする競争のような場合は、時間が短い方が有利であるけれど、自分の好きなことに打ち込んでいる場合ならば、目的になかなか達しなければ、それだけ楽しい時間が増えるのだから有利である。

どう考えるのか、人と比較するために自分は生きているのか、それとも自分の楽しみのために生きているか、という違いだと思われる。

「整理」についても、おそらく同じことがいえる。仕事の効率のため、他者との競争に勝つための整理術は、僕は知らない。そういう「競争」に意味があると考えたことが一度もないし、意味のないことに時間を使うほど馬鹿げたことはない、という程度のコメントしかない。

『アンチ整理術』222ページより

整理などしない「整理術」

僕の仕事場は、かつての研究室も実験室も、今の書斎も工作室も、すべて例外なく、もの凄(すご)く散らかっている。あらゆるものがいっぱいで、整理も整頓もまるでできていない。こういう場所で、僕は研究をしてきたし、今は創作をしている。

したがって、僕にはその方面の「整理術」というものはない。はっきりいってしまうと、必要がなかったのだ。整理する時間があったら、研究や創作や工作を少しでも前進させたい、と思っていた。無駄なことに時間を使うなんて馬鹿げている。

すなわち、これが、僕の「整理術」である。
 
それを書いてしまうと、ここで本書の一番大切な結論はお終いといえる。

断捨離はもってのほか

世間では、「断捨離(だんしゃり)」がどうのこうのと話題になっていて、僕もときどき「どう思いますか?」と尋ねられる。たしかに、世間では「生活の知恵」なるものが登場する場合、その多くが、ものをどう収納するか、どう整理するか、どうやってものを捨てるのか、不要なものをどう活用するのか、といった話題になりがちである。

僕の断捨離に対する考えは一つだ。不要だと断言できるものは捨てれば良い。そうでないものは持っているしかない。これだけである。単純明快でしょう?

たとえば、僕は若い頃から、一度読んだ本や見たビデオは捨ててきた。二度と読まないし見ないからだ。一方で、それ以外の自分で買ったものは、ほとんど捨てない。将来役に立つ可能性がある。絶対に不要だと断言できないからである。そもそも、自分が稼いだ金と交換するのは、この「可能性」があったからだ。

工作室や書斎は、そういった可能性でいっぱいになる。ものに溢れて散らかっている様とは、僕にいわせれば「可能性の山」である。ガラクタもすべて「宝の山」だ。捨てるなんて考えは、これっぽっちも湧かない。

「終活」なんていらない

それから、最近よく話題に上るのは、「終活(しゅうかつ)」なるもの、つまり、死ぬときの準備のことだ。身の周りを整理しておこう、ということらしい。これも、僕にはまったく無駄に思える。そんなことをして楽しいか? と首を傾げてしまう。

人間、死んだらそれで終りである。霊界などない。天国も地獄もない。この世からいなくなって、はいお終いとなるだけだ。

僕は、両親が残した家を取り壊し、大量のゴミを処分した。その後始末に、三百万円ほど費用がかかった。だが、父も母もそれ以上の遺産を残してくれたし、借金もなかったので、まったく迷惑だとは思わなかった。葬式代も数百万円かかったが、これは両親ともに兄弟とつき合いがあったからで、その親戚筋だけを呼んで、質素に執り行った。墓は作っていない。僕は、両親の墓はいらないからだ。

僕が死んだときは、僕の持っているものを処分する権利は、僕の子供たちにあって、どうにでもしてもらえば良い。捨てるなり売るなり、できると思う。

売った方が金がかからないだろう。捨てるにしても、それくらいの遺産は残すつもりだ。

自分自身は、どこかで野垂れ死にすればそれで良い。自分の墓はいらないし、葬式も不要だ。ただ、墓も葬式も、僕の権利ではなく、子供たちがしたければ、すれば良いと思う。そこまで親が干渉することはできない。これが、僕の終活のすべてである。簡単でしょう?

本書の結論

もう、この「まえがき」だけで、本書の内容がほとんど理解できたのではないか、と思う。結論をここに書いておこう。

断捨離するなら、持ちものなど、どうだって良い。そのまえに、自分の気持ちを断捨離しておこう。終活も同じだ。どちらも、まずは死ぬ覚悟をしておくことである。その次には、人間関係を断捨離しておくこと。そういう面倒なものを子孫に残さないようにしておく。借金があったり、人から援助してもらっていたり、といった関係を処理しておくこと。親戚関係で、子供たちになにかいってきそうな人がいたら、縁を切っておくこと。そういうものが、本当の断捨離である。もし断捨離をしたいなら、まずはそちらを、という意味だ。断捨離を奨励しているわけではないので、誤解しないように。

さて、そうはいっても、人それぞれ、生き方が違っているし、なかなか縁が切れない柵(しがらみ)もあるだろう。ばっさりとはいかない。

でも、なんとか理想となるべき方向性を思い浮かべ、そちらへ少しずつでも近づこう、という意思を毎日確認することは、大切だと思う。

いつか死ぬことはわかっているのだけれど、明日や明後日は、なんとか死なずに迎えることができそうだ。だったら、明日のために、今日は準備をしよう。そういう意味での「整理術」を、考えながら書いていこう。

二〇一九年一月   森 博嗣