「大人の教養ブーム」の昨今、「哲学」に興味を持つ人も多く、さまざまな入門書が出版されています。しかし入門書を何冊か読んで、「そうか、哲学ってそういうことか」とはならないのが現実。なぜ哲学はこんなに難しいのか?

哲学が難解なのは、「理性」や「悟性」、「存在」や「本質」、「実在」といった哲学用語に原因がある──。その点に着目し、基本的な哲学用語の「語源」からスタートして哲学の概念や歴史を解説するこれまでにない入門書が、『語源から哲学がわかる事典』です。著者の山口裕之教授が同書の「はじめに」に記したこの本のねらいを読むと、「哲学が難しい理由」の一端がわかります。

ここではその「はじめに」を、一部編集のうえ公開します。

はじめに──哲学と言葉

哲学というと「役に立たない学問」の代名詞のように言われながら、哲学の入門書や概説書は、たいていの書店の少なからぬ一角を占めている。なかには、そこそこ売れているものもあるようだ。ありがたいことに、哲学に対する世間の関心や期待、あるいは「変なもの見たさ」の好奇心は、けっこう強いということなのだろう。

しかし、「わかりやすい」とか「誰でもわかる」とか銘打たれた哲学入門書を手にしてみて、「やっぱりよくわからない」と、がっかりした経験をお持ちの人も多いのではないだろうか。かく言う私もその一人である。

いちおう私は大学で哲学教師をやっているが、自分一人で西洋哲学2500年の歴史を網羅しているわけがない。これまでいささか研究してきた18世紀のフランス啓蒙思想のことならそれなりにわかるが、古代ギリシア哲学や中世哲学にそれほど詳しいわけではない。ドイツ語が不得意なので、ドイツ哲学も不得意である。初級文法を学んだあとに最初に読んだ本が、悪文で名高いカントだったのが失敗だった。

しかし、大学1年生向けの「哲学入門」のような授業では、やはりプラトンやアリストテレスやカントの話をしないわけにもいかない。学生諸君には申し訳ないが、入門授業をするのに研究者レベルの知識はいらないだろう。そこで「てっとり早くわかりやすい入門書を」ということになるのだが、いくら読んでも何だかやっぱりよくわからないのである。

また、哲学の授業をやっていると、興味を持ってくれた学生諸君によく、「もうちょっと知りたいので、わかりやすい哲学入門書はないですか」と聞かれるのだが、そういうわけで、本当の初心者にお勧めできる入門書になかなかめぐり会えなかった。そこで、それなら自分で書いてしまおうと思って書いたのが、本書『語源から哲学がわかる事典』である。

哲学の何につまずくのか

書くにあたって、まず、多くの哲学入門書の何がわからないかを考えた。明らかに、最初につまずくのは、哲学用語が難解だということである。たとえば、哲学本の頻出単語である「知性」「理性」「悟性」はそれぞれいったいどういうもので、どう違うのか。これがきちんと説明できる方には、一学期間の授業をお任せしたいぐらいだ。

多くの方にとって、「知性」や「理性」は何となくわかるだろうが、あくまで「何となく」というレベルではなかろうか。「あの人は知性的だ」とか「理性的になりなさい」などといった表現は、たしかに日常会話でも使われることがある。

これらはおおむね、「あの人は賢い」とか「感情的にならず冷静に」といった意味で使われるようだ。しかし、そうしたあいまいな理解のままで哲学書を読み進むことはできない。ましてや「悟性」となったら、日常会話でお目にかかることはまずない。

そこで手元の平凡社『哲学事典』(1971年)を引いてみると、このように書いてある。

カントによれば、悟性は純粋概念の能力と呼ばれ、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、対象を構成する自然界の立法者である。(495ページを一部改変)

率直に言ってチンプンカンプンである。もちろん今なら、多少はカントについて勉強したので何が言いたいのかわかるが、すでに勉強した人でないと使えない事典ではあまり意味がなかろう。この事典は学生時代に購入したものだが、そういうわけで、学生時代にはあまり活用できなかった。

英語では、哲学は「ふつうの言葉」で語られる

私の学生時代の話を続けると、あるとき目からウロコが落ちる経験をした。カントの『純粋理性批判』の英訳を読んだときである。この本の原書はドイツ語だが、英訳の題名はThe Critique of Pure Reasonという。何と、「理性」は英語でreason(=理由)なのである。

これなら中学生の時に習った単語だ。おそらく、イギリスやアメリカなら小学生でも使う言葉だろう。動詞で使えば「推論する」ということで、これは日本ではたぶん小学生は使わない単語だが、英語を見れば明らかなとおり、要するに「理由をつけて考える」ということである。「理性」とは、何のことはない、「理由をつけて考える能力」だったのである。

そして、くだんの「悟性」はunderstandingと英訳されているではないか。絶句、であった。なんでシンプルに「理解力」と訳さなかったのか。哲学用語の翻訳を作った明治の先人たちが恨めしくなったものである。

先ほどの哲学事典に書いてあることは、要するに「カントによれば、人は物事を理解するときに、感覚器官に与えられた情報をあるがままに受け取るのではなく、人間の側の理解枠組みに当てはめてしまう」ということである。

感覚器官に与えられるのは、色や音などの雑多で無秩序なものでしかない。われわれの感覚能力(感性:英語でsensibility)は、それをもとに、「物が空間中にあって、その位置や形が時間的に変化する」というような形に整理する。さらにわれわれは、そうした物に概念を当てはめる。たとえば、「ああ、これは〈犬〉で、あれは〈猫〉だ」などと見て取る。

そうして知覚されたものについて、「すべての犬は、死ぬんだな」とか、「たいていの犬は茶色だが、ブチの犬もいるんだな」などと判断して理解するのが、「悟性」の役割である。カントが言っていることは、いわば現代の認知心理学が研究しているような話なのである。

先人たちの「名訳」が哲学を難しくした

今なら、明治の先人たちの訳語が、哲学用語のギリシア語にさかのぼる語源やニュアンスを汲んだなかなかの名訳ではないかとも思う。ただ、訳語を作るときに、仏教や儒教の概念を援用したり、そこからの類推で訳したりしている。

そこで、日常では使わないような難解な漢字が使われることになった。また、漢字にはそれぞれ意味があるので、訳語が原語とは違ったニュアンスを帯びてしまう。

こうしたことから、哲学を理解しようとしたときに、翻訳だけに頼っていては限界があるのである。たとえば、「存在」「本質」「実体」「実在」などは、日本語だけ見ればよく似た言葉で、意味も違いもよくわからないが、英語にすればそれぞれbeing、essence、substance、existenceと、明らかに別の言葉である。

当然、意味やニュアンスは異なる(といっても、being以外はラテン語起源の言葉だから、哲学的な議論に親しんでいない普通のアメリカ人やイギリス人にこれらの違いを聞いたら、目を白黒させるだろうけれど)。

もちろん、哲学書の全文を原書で読むのは大変である。しかし、少なくとも単語レベルで、原語が何か、さらにその語源は何かということがわかれば、哲学はずいぶんとわかりやすくなるはずである。なにしろ、英語では、reasonとかunderstandingとか、明らかな日常語で哲学が語られているのである。

語源から哲学がわかる事典』の構成と使い方

というわけで、日本語で哲学を理解することは、なかなか難しい。この本では、難解な用語を使って説明すること(説明した気になること)は避け、専門用語は使わず、むしろ、哲学の専門用語がもともとどういう意味だったのかを、日常の言葉を使って説明するように努力している。それに加えて、何とかわかりやすくするために、この本はちょっと変わった構成を取っている。

この本は「事典」というタイトルだが、通常の事典と違って、項目が五十音順に並んでいるといった体裁を取っていない。章立てがあり、地の文があり、その中に、通常の事典であれば項目として立っているような言葉が「Keyword」や「原書のタイトルにこだわったブックガイド」としてはめこまれている。

これは、哲学用語を理解するためには、なぜその用語を取りあげるのかを説明した上で取りあげ方がよい、と考えたからである。地の文では個々の哲学者の紹介や哲学史的な流れを概説し、そこで登場した用語や本について解説する形にした。全体として、おおむね古代から中世、近代までの歴史的順序にしたがって配列されている。

また、章ごとに簡潔なまとめを箇条書きで付けておいた。

たいていの学術書には、本文中の記載の出典や余談を記すための「脚注」と、「参考文献一覧」が付けられている。しかし、本文を読んでいる途中に脚注を参照するのはわずらわしいし、文献一覧に本の題名と著者が並んでいても内容や重要度はよくわからない。

そこで、この本では、脚注的な内容と主要参考文献を、本文を読み終わった後に独立して読んでもらうのがよいと思い、「出典と余談、あるいはさらに詳しく知りたい人のための文献ガイド」という形で付けてみた。次に読みたい本を選ぶときの手助けにもなるかと思う。

そして、本の末尾に、簡単な辞書としても使えるような解説付きの索引と人名索引を付けた。

何とか、「わからないものがわかることの面白さ」がわかってもらえるとうれしい。