去る3月6日、東京は池袋のジュンク堂書店で、NHK Eテレの人気番組「100分de名著」のプロデューサーである秋満吉彦さんと、能楽師の安田登さんの対談が行われました。話題は秋満さんの近著『行く先はいつも名著が教えてくれる』で取り上げられた『夜と霧』(フランクル)や『モモ』(エンデ)といった名著の読み解きから、名著によって得られた仕事観や人生観、さらには日本人の働き方、文化論にまでおよびました。この対談のダイジェストを、前・後編に分けて掲載します。
(前編はこちら)
『行く先はいつも名著が教えてくれる』発刊記念スペシャル対談 秋満吉彦(NHK Eテレ「100分de名著」プロデューサー)×安田登(能楽師) 【後編】
素材の潜在力を引き出す職人の技
秋満:フランクルが僕の人生を変えたとすると、レヴィ=ストロースは仕事のやり方を変えてくれました。
ディレクターとかプロデューサーというのは仕切り屋です。出演者をある場所に集めてお膳立てをして、コントロールする。しかし、ときにそのコントロールが暴走することがあって、全体を支配しようとしてしまいます。すべてを自分の都合がいいように固めて、自分のやりたいことを上から押しつける。
でも、このやり方ではつまらないものしかできない。支配する人の脳内にあるものだけしか出てこないから、だいたい想像がついてしまうのです。考えもしなかった感動的なものができるのは、メンバーそれぞれの内発的なものが引き出されたときです。
レヴィ=ストロースは、文化人類学者として世界中をフィールドワークした人物として有名ですが、哲学者でもあります。日本にも2、3回来ていて、当時彼が「人間にとって労働とは何なのか」を研究していたこともあって、日本の職人の働き方を観察しました。漆塗りや木工の職人、陶器をつくる人などを徹底的にリサーチして、それが『月の裏側』という本に書かれています。
彼がその観察で理解したのは、西洋人の「働く」と日本人の「働く」は違う、ということでした。西洋人の労働というのは、自分の頭にあるプランを完璧に対象とか自然にあてはめる。たとえばコンクリートで何かをつくるとしたら、完全に材料をペースト状にして、自分が想像した設計図にあてはめて型をつくる。
ところが日本人は違います。たとえば石垣。自然の石をどう組み合わせたら石垣になるかを考える。陶器をつくる人は「この土がなりたがっている形を引き出す」と言ったり、仏師も「私は何もしていない。この木の中に眠っている仏様を掘り出しただけだ」などと言ったりするわけです。
レヴィ=ストロースはそこに気がついた。つまり、日本の職人は主体的に何かを支配しようとするのではなくて、素材そのものが持っている素晴らしさ、潜在力を引き出そうとする。これを彼は「野生の思考」と呼んでいますが、それが日本人の働き方であって、いまの西洋人が失っていることだ、と言うのです。そして「日本人にこそ学べ」と。
あらゆるものを開発して消費しつくしてしまう、先がないような文明のつくりかたではなくて、日本人の、受動的に何かを引き出そうとする働き方こそが、人間の労働に豊かさを取り戻す方法だ、ということを間接的に言っている。
『月の裏側』はほとんどが講演録で、体系的にまとまっていないから、深読みが必要とされる部分もありますが、僕はこれを読んで深い感銘を受けました。
自分の仕事を振り返ってみると、自分の頭の中のプランを現場に押しつけて、自分のやりたいことだけを実現しようとしていた。やはり支配していたな、と思いました。
支配からは生み出しえないもの
秋満:夫婦の間でも職場の人間関係でもそうですが、人間というのはどうしても他者を支配したくなるわけです。でも、本当にすごいことが起こるのは、相手の内発的な力が引き出される場合です。誰も考えなかったような素晴らしいことが起こる。そういうものが「いい仕事」と言えるんじゃないかと思います。
安田:『平家物語』に宇治川の合戦の場面があります。流れの激しい宇治川を、騎馬で渡らなければならない。それをリードした武将の指示は、まず強い馬を川上に置く。そして、その馬に川の流れを堰き止めさせて、緩くなった川を弱い馬に渡らせる。それでも遅れたものは弓の端を取らせて引っ張り、絶対に置いて行ってはいけないと。
そして渡るときには、川の底に足がつくときはできるだけ手綱を緩めて自由に歩かせよ、馬の足がつかなくなり、思うように動けなくなってはじめて手綱を締めて泳がせよと。それで300騎が渡り切った。馬の能力を最大限引き出せ、ということで、これは非常にレヴィ=ストロース的なエピソードですね。
秋満:ギリシア語に「ポイエーシス」という言葉があって、これは潜在的なものを引き出すということです。一方で「プラクシス」というのがあって、自分のプランを相手にあてはめて支配する方法です。もともとギリシアには両方の働き方があった。ところが西洋世界が近代化し労働が効率的になっていく過程で、ポイエーシス的な部分が失われて全部プラクシスになってしまった。レヴィ=ストロースがすごいのは、日本人の働き方を見て、西洋人ももう一度ポイエーシスを取り戻そうよ、考えたところです。
安田:プラトンの『パイドン』で、ソクラテスが死ぬ直前に詩を書き始めるんですよ。そのときにロゴスを使ってはいけない、というんですね。ミュートスを使うんだと。ロゴスは支配、ミュートスは自然と言えます。
詩というのはつくるものではなくて、生成されるものなのです。それをソクラテスは死の直前に気づいた。内発的に沸き出てくることをただ書いていく、それこそが詩だと。
秋満:よく「詩神が降りてくる」と言いますが、書こうとすると上手く書けない。詩作というのもどちらかというと受け身の行為なのですね。
さて、これまでの話に共通するのは、受動的な態度、受け身の姿勢でいることは、主体的に何かを支配しようとすることとは違う何かを生み出す、ということではないでしょうか。
フランクルにおける人間は「人生から問われる」という意味で受け身の存在だし、『モモ』では「耳で聞く」という受け身の行為が重要なテーマでした。そしてレヴィ=ストロースが発見した日本の職人の働き方も、自分が支配するのではなくて、対象の良さを引き出すという受け身の姿勢を体現しています。
受け身の思想から生まれるオリジナリティー
秋満:坂東玉三郎さんが『夕鶴』を演じていたときに、インタビューしたことがあります。誰もが知っていて、何百回何千回と演じられた物語を、玉三郎さんがどう演じるのかに興味があって、「玉三郎さんのことだから今までにない、すごいことを考えられているのでしょう?」と聞いたら、まったく想像もしなかった答えが返ってきました。
玉三郎さんは、「この芝居には、何千回と演じられるなかで先輩方が積み上げてきた、すぐれた型があります。私のやることは、稽古でその型をひたすら繰り返すこと。先人たちが積み重ねてきた型に、自分をあてはめていくのです」とお答えになりました。
それではつまらないのでは? と思ったのですが、そこからがすごかった。
「それをひたすら、何百回何千回と続けていくと、自ずと現れてくるものがあります。積み重ねられてきた型から、どうしようもなくはみ出てしまう《何か》が。それが、自分をも驚かせるのです」──こうおっしゃった。
オリジナリティーというのは、個人がゼロから構築するものではなくて、歴史的に積み重ねられてきたものに、自らの体をあずけていくことで自ずと生み出される。そうして生み出されたもののほうが、より大きく人の心を動かすことができる。玉三郎さんはそれを楽しみにしている、ということでした。
それを聞いて、すごいなと思いました。僕は近代哲学を学んだせいか、どうしても自我が強くて、自分がコントロールしないと気が済まないし、ディレクターとかプロデューサーの性(さが)で、全部支配するつもりで勢い込んで働いてしまう。
よくよく考えると、フランクルも同じようなことを言っています。自分の欲望ではない、人生から問われているものに応えることで、最強の意志が生まれる。ちっぽけなことですが、僕が就職活動であんなに力を出せたのも、人生からの問いに答えようとしたからではないでしょうか。
玉三郎さんの話を聞いて、近代的な自我を持つ自分のダメな部分を思い知らされました。
安田:能も型の芸能です。現代の演劇では、何かになりきるとき、たとえば悲しい演技をするときには、自分が体験したすごく悲しいことを想像して涙を出す。メソッド演技という方法です。
ところが能のシテは幽霊、怨霊が多い。ほとんどの人は幽霊や怨霊になったことはないでしょ。だから、幽霊のメソッド演技はできない。だから型があります。
能の幽霊や怨霊は、果たせなかった望みを抱いていたまま死んでいった人とか、フランクルのような強烈な苦しみを味わった人の「思い」が霊となって現れて来ます。この「思い」というのは「こころ」とは違います。「こころ」というのは「心変わり」という言葉があるように、ころころ変化する表層の心的機能です。それに対して「思い」というのは「こころ」の深層にある不変の集合的な心的機能です。いま目の前で演じている幽霊に感情移入などできなくても、その「思い」は集合的であるから共有されてしまう。
能の型というのは、古代の人の「思い」を圧縮したものじゃないかと思うのです。それは頭でも心でも理解できるものではない。だから、稽古しているときは何も考えてはいけなくて、その圧縮されたものを、ただただなぞる。本番の舞台でもそうです。「こう演じてやろう」などとは考えてはいけない。ある能楽師が言うには、セミの抜け殻になるのがいいと。さっきから何度も話に出ている受け身、ですね。
そうやってなぞっていくと、圧縮されたものが解凍されていきます。しばらくすると、かつて感じたことのないような感覚を感じることがある。それがお客さんにまで流れて行って、同じように何かを感じる。型の力というのは、そういうものなのでしょう。
安田:話を戻しますが、秋満さんは『夜と霧』を読んだことがきっかけでマスコミを志望した。皆さんにひとつ申し上げておくと、自分に向いているものを見つけたいなら、まずは向いてないものを探すほうがいい。でも、向いている、向いていないをそう簡単に決めないほうがいい。まずはできるだけ多くのことを体験する。その準備段階としては書店に行くのが一番いいですよ。
秋満:ジュンク堂書店さんのような(笑)。
安田:はい。孔子は「博学」と言っていますが、「博」というのは広い田に一本一本、苗を植えること。そのように、ひとつひとつ制覇していくのが博学です。まずは、「この棚で自分に興味のないものをなくそう」と思いながら書店ですべての棚を見てみる。そして、全然興味のない棚から一番簡単そうな本を買ってくるのです。たとえば微分積分に興味がなかったら、そこであえて微分積分の入門書を買って読んでみる。ちゃんと問題を解きながらね(笑)。できれば数冊はトライする。そこまでやって、本当に興味があるのかないのかを自分で確かめてみる。そうしないと、本当に自分に向いているものは見つけられないと思います。ぜひ、この対談が終わったら、書店内を歩き回ってみてください。
秋満:なるほど。確かにそうです。どんな本でも手に取ってみて乱読していくと、見えてくるものがありますね。
(終わり)