「飲食業界では、表に出てこない『不採算労働費』の問題が深刻なんだよ。新人スタッフの戦力化が遅れ、恒常的にいつも多めの人員シフトを組むことで、知らない間に人件費がかさみ、1年間で数百万円規模の価値を生まない不採算の労働費が計上されてしまっているお店が多い。このようなことがないように、『付加価値を生む人員計画と人材育成システム』をつくり上げる必要がある」
望海は、この更家の話を聞いたとき、まったく自分やUBOKIには関係のない話だと思って、見事にスルーしていた。しかし今、まさしく、UBOKIも人材の問題に直面している──。
「ホント、飲食店って人の出入りが激しいんだなー。なんとか、みんなで助け合わないと、UBOKIはつぶれちゃうかも!」
望海は、そうつぶやきながら、スマホでメールを1通送信すると、いつの間にか、ソファーの上で深い眠りの中に落ちていった。
「付加価値を生む人員計画」を学ぶ
翌日の日曜日。望海の出勤時間は午前10時。狭心症で体調が悪いのに、母親の幸恵は、いつも朝食を用意してくれる。望海は9時半に目が覚めると、飛び起きて、母親がつくった朝食を流し込むように平らげ、UBOKIにダッシュする。家からUBOKIまで、走れば5分とかからない。望海は走りながら、自分に叱咤激励する。得意の「ランニング自己啓発」だ。
「付加価値を生む人員計画を早くつくらなきゃ。もっと具体的なことを、先生に教えてもらわないと、次に進めない」
更家は、いつもの5番テーブルで、駅前のパン屋で朝食用に買ったアボカドサンドをほおばりながら、昨夜、望海からメールで質問された内容を読み返していた。可愛いクライアントの期待に応えることが、更家に今課せられている最大のミッションである。
「おっはよー」望海は滑り込むように、更家の前に座った。「『付加価値を生む人員計画』って、どういうことですか?」望海はなんの前置きもなく、更家に質問をダイレクトにぶつける。
「人件費が高くなっても付加価値を生む。そうすると、お店の評判が上がる。その結果、売上が上がって、労働効率も向上する。そういう好循環になるように、社員を採用していくことだよ」
「ふむふむ」
「通常、個人経営レベルのお店では、社員は1人か2人。3人ともなると多いほうだろう。しかし、単純に社員の勤務時間を増やすことで人件費を抑えたり(サービス残業させたりする場合)、アルバイトのほうが時給が安いからといった考えだけで、人員計画を考えてはいけないんだよ。
しかも、そのような魅力のない職場にしてしまうと、すぐに社員もアルバイトも辞めてしまい、いつも募集をしなければいけなくなる。その場合、募集費もばかにならないし、新しく入ったスタッフは戦力になるまで育たない。それでは、良いオペレーションができないばかりか、結果的に人件費率が高くなってしまうという悪循環に陥ってしまうんだ」
「次の人員補充に時給の安いアルバイトを考えていたけど、考え直す必要があるね」
更家の長い説明にも、望海が思考停止になることは少なくなっている。このような望海の反応を受けて、更家は説明を掘り下げていく。
「募集費から人件費率までを1連に考えることを忘れてはいけない。アルバイトであれば季節的な応募数の変動、売上から考えれば、繁忙期などの季節指数も考慮して1年間を通した人員計画を立てなければならないんだ。
例えば、3月は就職などの新生活のスタートで辞めるアルバイトも多く、逆に言えば2月から3月初めまではアルバイトを募集しても応募数が集まりにくい。もし、3月下旬に学生のアルバイトが辞めることが前もってわかっているのであれば、応募が集まりやすい秋口から考えていかなければならないんだよ」
「なるほど」
「そういった意味では、人員を安定して確保するためには、アルバイトに依存するのをやめて、社員を多くして、『高付加価値のサービス』の実現をめざす視点に切り換えていかなければならないだろう」
「高付加価値のサービス? 先生、詳しく教えて!」
「私が1年前、コンサルティングした居酒屋では、もともとアルバイトが中心の人員構成だったんだよ。それをアルバイトは忙しいときのヘルプという考え方で数人までに減らした。その代わり、社員を増やして、ほとんどのシフトを社員6人だけで回すことにしたんだ。ちなみに、その居酒屋は夜だけの営業だったんだよね」
望海は目を丸くした。
「えっ? アルバイトを減らして、社員を中心にしたってこと?」
「そうだよ」
「それで、どうなったの? 普通、夜だけの営業で、多くの社員を抱えるのは厳しいんじゃない?」
「そうなんだけどね。昼も夜も通して営業していれば、人件費効率は良くなるわけだけど、その居酒屋は立地の問題で夜限定の営業しかできなかったんだ。普通に考えたら、社員を増やせば、人件費が増えて経営を圧迫することになる。でも、その居酒屋は、社員の能力を最大限に引き出して売上を伸ばすことによって、人件費上昇をカバーしようとした。決して1等地とは言えない立地だからこそ、社員の能力を最大限活用しようとしたんだよ」
「ますます、ムズい(難しい)んじゃないかと思うんだけど、どういうこと?」
「まず1人ひとりの社員に専属で担当する仕事を与えて、担当制にした。営業中は、フロアや厨房など、それぞれのルーティン業務をこなしつつ、経理・営業・企画・販促など全員が必ず、個別に専属で担当する業務を新たにもつ。例えば、“営業主任○○”というように、まるで普通の会社のような役職と職務にしたんだ。
そして、毎日1時間半程度早く出勤してもらい、その1時間半分はお店のルーティン業務は行なわずに、各自に割り当てられた新しい仕事に専念してもらった。その結果、売上が25%アップしたんだ」
「そうか。もし、シェフを営業担当にしたら、特定の時間は料理の仕事をやらずに、営業だけしてもらうってことか」
「営業部長とか、新しい肩書きを入れた名刺をつくってみるのもいいよ」
組織改革を実行する
望海は、UBOKIのスタッフ全員をホールに集めた。
「では、10月31日の営業前ミーティングを始めます」
「今日の予約を確認します。合計12組で、えっと……」
料理長補佐役の加山が、望海の進行を妨げるかのように手を挙げる。「望海ちゃん、聞いていい?」
「あっ、はい、加山さんどうぞ」
「最近、アルバイトさんが来ていないようだし。今日も社員ばかり5人でしょ。予約が12組も入っているんでしょ? それに、近所でイベントもあるのに、社員5人と望海ちゃんで1日回すのは厳しくないですか?」
「5人と私?」
「いや、望海ちゃんが役に立たないと言っているわけではないのよ」
「そうだよね。私はまだ0.5人前ぐらいだもんね」
望海は、フーと息を吐きながら、集まったスタッフのほうを見る。「実は、今日から皆さんに新しい仕事と役職を与えたいと思っています!」