単なる言葉ハンターになるべからず
ピンと来た言葉は辞書やネット検索でとことん掘り下げる。
3の「ピンと来た言葉は辞書やネット検索でとことん掘り下げる」はいたずらに言葉を駆り集めたところで、身につかなければ無用の長物ということです。
よくタレントが利口ぶって、バラエティ番組で言い間違いをする。彼らはそれをMCに指摘され恥をかいても、そこで笑いを取れるからいい。しかし、それと同じことがネット記事で頻繁に起こっている。しかも、数が多すぎて誰もまともに指摘しない。
そして、大きな間違いをしでかした時には、現にDeNAが運営する医療系ニュース「WELQ」などのような、まとめ記事サイトが続々と閉鎖に追い込まれてしまう。ネット記事での情報収集も信頼性の高い媒体を通じてするのに越したことはないでしょう。
そして、1でも参照したネット記事の例をまた引き合いに出すと、「ひたすら気になる言葉を集めたら、後は咀嚼してみることが大事」、そこで「いいね!」と思ったものをじっと眺めていれば、必ずや共通項があり、「公式のようなものが見えてくる」んだそうです。かなり投げやりな説明。みんな、この点こそ知りたいんじゃないかな。
だから、次の章をじっくり書いたわけですが、その公式とやらも、習わないとどこにあるのだかわからないのが普通で、それをリテラシー(読解記述力)というのです。
文章ほど長くないが、コピー・ネーミングの言いたいことはなにか──をさっと読み解くにも、多読による訓練はいるでしょう。それも自分の表現に結びつけようとするには、まずは読むしかない。しかし、ただ読むうちにぼんやりと秘訣など見えたら天才だ。文は書くにも読むにも、まずは型をつかむものです。
典型的なのが和歌(短歌)や俳句や川柳で、それらは五七五七七か五七五という文字制限の中でいちおうは成立しています。しかも、伝統的な俳句には季語を入れるルールもある。その制約の中で「読んで詠む」ことを繰り返し、いわば自身の最適解を導き出す。言葉を吟味し、自己流に使いこなす訓練をしないとなりません。
実は私自身、長年俳句を嗜んでいますが、こうした定型詩を理解することは、コピーやネーミングの感覚を磨くのに大いに役立っています。型とか基本を最初にきちっと教わっておかないと、俳句なら自由律に踏み出すにも、どこか取り留めなくなってしまう。ピカソが歳を追うごとにあんなにも大胆な変化を遂げられたのも、基礎がしっかり身についている自信があったからでしょう。
たくさんの言葉を摂取し、その海に溺れてしまうくらいなら、いくつかこだわりのある言葉を核にし、それらの可能性をとことん追求する─というやり方もあっていい。言葉はいかにスパルタで鍛えても、逃げ出したりはしません。誰よりも信義ある友達ですからね。
商品名が持つコミュニケーション力に注視せよ
伝える相手をいつも思い描き、ネーミングでの対話を試みよう。
5の「伝える相手をいつも思い描き、ネーミングでの対話を試みよう」。むろんネーミング作成の際も、多くの人に問いかけることで、それが通用するか否かを判断し、また改良点など見出だします。この件について最早、言葉を費やすこともないでしょう。ホッファーのような読書を通じての自問自答も、充分にコミュニケーションと言えるかもしれません。
しかし、ネーミングがコミュニカティブかどうか──という意味合いも実はそこにはあるのです。簡単に言えば、目にしていて、実際の字数以上に言葉が膨らんでくる。一個のネーミングが勝手に複数の言葉を連想させる、いや、それを用いてのやり取りまでにも増幅するようなイメージです。