しかし、これは善悪という観念が入り込んだために「データの曲解」が起こった例だ。実は、このデータは「未成年で売春をしている者」への聞き取り調査に基づいている。つまり「18歳以下で売春をしている者にインタビューしたところ、はじめたのが13歳くらい」だというのだ。
これは、明らかにインタビュー対象が偏っている。18歳以上の売春を業とする者を調査から除外し、若い人に偏らせた調査の結果なのだから、開始年齢が若くなるのも当然で、何も驚くことはないのだ。
たとえば、ある地域で「小学生で亡くなった者」の年齢の統計をとり、8~9歳という数字が出たからと言って、8~9歳がその地域の平均寿命だとは主張できないはずだ。「少年少女を救え」という使命感と道徳的判断が結びついたために、データの正確な読み方ができなくなり、政策の根拠になってしまったのだ。
善意が陰謀論を生む
売春は、強制や性的搾取の結果とは限らない。むしろ、家庭でのネグレクトや虐待などで、子どもたちが家にいられなくなることが問題なのだ。お金に困ると、同じような境遇の仲間から勧められる。他の仕事に比べて簡単に稼げるから続ける。
これが実態だとすれば、「性的搾取からの解放」政策は失敗するだろう。なぜなら「解放」しても、彼らはまた生活のためにその仕事に舞い戻るだけだからである。
しかし「子どもの解放」を進める人々は、動機が善意であるだけに、このような「反省」を不純だと反発し、さらに不毛な政策を推進しようとする。
「子どもを救え!」というミッションに従う自分に道徳的満足を感じ、効果が見込めない方法にのめり込む。こんなに努力しても結果が出ないのは、協力すべき人が裏切っていたり、対策が徹底していなかったりするせいだと考えるのだ。これでは、陰謀論と紙一重である。
近代の前提=寛容と熟慮
こういう道徳や宗教的信念に頼って「考えない人々」には、マジック・ワードが力を持つ。自分が正しいと思い込み、その信念に従って猪突猛進に突き進む姿は、かつて西洋で行なわれた「宗教戦争」によく似ている。自分の信じていることを絶対だと信じ込み、それと反対の意見を持つ人々を、善意・正義を邪魔する「悪魔」の手先だと思い込んで、迫害するのである。
ヨーロッパでは、こういう「宗教戦争」は200年も続き、その間に国土は焦土と化した。近代になって、やっとその愚かさに気づき、「宗教=信念」は個人の内部に秘めるべきで、公的に強制してはいけない、という寛容の原理が成立したのである。
だが、アメリカにまだ「宗教右翼」などという不寛容な集団も生き残っている。日本も、比較的早く社会が世俗化したおかげで、宗教戦争の悲惨さをここ数百年経験していない。だから、公的な枠組みと私的な枠組みは違っており、私的な善を社会にそのまま適用してはならないという意識がはっきりしなかったかもしれない。
結局、現代でも「私」は曖昧に「みんな」につながり、それが「多数の意見=民主主義」という美名で個人に押しつけられる。「空気を読む」などという言い方が流通するのも、そういう多数への従属を別な形で言い表わしたものだろう。自分と社会のあり方の違いに無自覚なので、マジック・ワードが排除できていないのだ。