そういえば、日本の某市でも「教師の給料を下げる」としたとたん、教員志望者が大幅に減ったとか。その結果として、某市では、レベルの低い志望者も採用せざるを得なくなった。結果的に教育サービスは低下する。
わけがわかった大人だったら、そのくらいの想定はすべきなのだが、そういう構想力・理解力に欠けているために「改革をしよう!」という言葉だけで舞い上がってしまうのである。
社会のメカニズムが理解できない
こういう人々はメカニズムをじっくり考えられないし、理解する根気もない。だから、「みんながよい心がけをすれば、社会全体もよくなる」などと信じたがる。
しかし、その簡単な理屈が成り立つには、実にさまざまな前提が必要になる。個人で成り立つことは、必ずしも社会全体で成り立つとは限らないのだ。
たとえば、アメリカの「禁酒法」は有名だ。飲酒はよくない習慣であり、やめたほうがよい。酔ってトラブルを起こしたり健康を害したり、ろくなことがない。「社会の害悪だ」という声が高まり、1920年代に酒の販売を禁止した。はたして、これで社会は安全・安心になったのだろうか?
残念ながら逆だった。酒を飲みたい人は相変わらずいたので、酒の値段が高騰してその取引に関わった人に莫大な利益をもたらした。
そこで、ギャングが販売に手を出し、利益でマシンガンを手に入れ、縄張りを確保しようと銃撃戦を引き起こす。それに市民も巻き込まれる。警察も必死で取り締まったが効果が現われず、結局「禁酒法」自体が廃止された。個人のレベルでよいことでも、社会的に規制すると、かえって無秩序になるのである。
おそらく、この法律がうまくいくためには、二つの前提が満たされねばならなかったと思われる。
- 人々は法律で禁止されたことは基本的に守る
- 悪い習慣はやめさせることができる
だが、非合法化したことで、反社会集団が法律を無視して利益を得ようとする一方で、法律で禁止されても酒を飲みたい気持ちは変わらなかった。二つの前提はどちらも満たされなかった。需要があれば、供給はどこからか現われる。悪を根絶しようと試みた結果、より大きな悪を招いたのである。
法律など関係ないという確信犯に対しては、法律の効果は少ない。だから禁止するコストが高くなる。それぐらいなら放っておいたほうがよい、という現実的判断も考慮しなければならない。
しかし、こういうメカニズムを詳しく説明しても、すんなりと理解されない。むしろ、話半分に聞いて、すぐ「非常識だ」とか「おかしい」と決めつけたり、「難しい話ばかりして、我々をバカにしているのか?」といきり立ったりする。
善意でデータを曲解する
このように、倫理や善意だけで社会問題を判断すると、大きな間違いを犯すことも多い。
たとえば、最近、アメリカでは「売春をしている未成年女性が最初に売春した年齢は、平均で13歳」という衝撃的なデータが発表された。これほどの低年齢ではじめるからには、大人から何らかの「強制」や「そそのかし」があったに違いない。そういう悲惨な性的搾取から、いたいけな少年少女たちを救い出せ、という政策が推進された。