自分と他人では、言葉はズレる
同じ言葉を使うだけでも、同じ感覚が伝わるとは限らない。なぜなら、経験が人により違っているからだ。
たとえば「サクラがキレイ!」と言ったとしても、文化圏が違うと「サクラ」にまつわる経験が違い、「キレイ」という言葉の位置づけや評価も違う。逆に、違う言葉の中に同じ「感じ」が意味されていることもあるかもしれない。ある人は「モクレン」の中に、他の人の感じる「サクラ」と似たような感覚を覚えるかもしれない。
だとしたら、それをどうやって他の人に伝えるか? いろいろ工夫しなければならないのは明らかだろう。
言葉は、最初は親から習い、次は友だちや知人から覚え、さらにはTVやネットでの用法に触れる。覚えた言葉を、目の前のものにあてはめて使ってみる。使い方が当たっていたらOKで、おかしかったら正される。試行錯誤するなかで、自分なりの使い方が作り上げられる。
とくに「自分の感じ方」は他人から見えないから、他人に伝えるための的確に表わす言葉はすぐに見つかるとは限らない。「今感じていることは、よく使われている言葉では何だかうまく表わせない。別の表現はどうだろうか?」などといろいろ悩んで、やっといくつか候補が見つかる。
それがある程度たまると、ようやく「自分の感覚」として言語化できるようになる。そのプロセスのなかで「論理はどういう仕組みなのか?」「どうやって構成したら効果的か?」などというテクニックも鍛えられる。
「思いやり」がない人
だが、そんな苦労は面倒だと思う人は、自分の「感じ」はそのまま他の人に伝わる、と簡単に思い込む。彼らにとって「私」と言えば、他ならぬこの自分のことだ。他の何十万人の、自分とまったく状況の異なる人が、同じ言葉「私」を使って違うことを感じたり考えたりしているとは想像もしない。
他人も自分のクローンのようなものだとイメージしている。だから「みんなそう言っているよ」とか「常識で考えろ」という言葉も抵抗なしに出てくるし、「国民にもっと説明を!」などと、簡単に自分が国民代表になったりする。「みんな」や「国民」が本当は何を考えているかどうか、確かめもしない。
こういう人は、ひと言で言えば「思いやり」がない人と言えるだろう。「思いやり」とは、相手のことを、自分のことのように考えるという「感情移入」を意味するだけではない。むしろ、他人は自分と違ったことを感じているかもしれないと想像できるという意味である。自分の行為や言葉が他の人からはどう見えるか、他人は自分と違った感じ方をしているのではないか、と他の方向から検討する能力なのだ。
その力が働かないと、言葉は必然的にひとりよがりとなる。困るのは、こういう人ほど、他人に対する想像力が働いていないので「他人の身になれ」と説教しやすいことだ。
ここの「他人」とは十中八九「自分」のことだ。つまり「他人の身になれ」と言いながら、その実「オレのことを無視するなよ」と言っているだけなのだ。しかも、そういう自分を「思いやりのある善人」と自画自賛しがちだからたちが悪い。
こういう人は、社会問題を考えるときも、多様な人が関わることを無視して、今の自分を基準にする。自己中心的に発想するので、今の自分を刺激すれば、こんな反応をするという予測に基づいて、他人への対処を考える。別の反応をする人間がいるかもしれないということに思いが及ばない。
その典型が、法律で厳しく取り締まれば犯罪が減るとか、教育・しつけなどを厳しくすれば、よい行動ができるという思い込みだ。
(次回に続く)