しかし、「記紀」には現在に通じる日本人の倫理観や価値観が記されています。一体どんなことが書いてあるのでしょうか? ここでは『古事記』をピックアップして紹介しましょう。
「人前で化粧をしてはならない」という価値観は古代から存在した
上中下3巻からなる『古事記』は、天地が生まれ神々が次々と生まれる、いわば「世界の創生」からはじまり、聖徳太子の叔母である推古天皇の代までが記されています。
有名な話として、伊邪那岐と伊邪那美という兄妹のくだりがあります。
この2人は日本列島を「まぐあい」、つまりセックスをして生み出します(国産み)。ちなみに前述の稲田さんによれば、彼らが初めて「まぐあい」をした体位は後背位だったといい、「日本における一般的な体位は後背性交でなかったかといわれている」とのこと。
そしてもう一つ、彼らのエピソードには、今の日本人の価値観を感じさせるものがあります。
二人は「国産み」に引き続き「神産み」を行ない、数々の神々を生み出しました。その最後に火の神「火之迦具土神(ヒノカグツチ)」を生んだ際、陰部に負ったやけどがもとで伊邪那美は死んでしまい、死者の国である「黄泉国(ヨミノクニ)」に行くことになります。
そこで伊邪那岐は死んでしまった伊邪那美がいる黄泉国を訪れ、愛する妻(この2人、兄妹であり夫婦なのです)を連れ戻そうとしました。はじめは伊邪那美は「もう、生者の国には戻れない」と答えるのですが、それでも伊邪那岐に懇願されたため、「黄泉国の神に相談してくるので、その間は私の姿を決して見てはいけない」と言い残し、黄泉国の奥に向かっていきました。
伊邪那岐は、そう言い残して消えた妻がなかなか戻ってこなかったので探しに行ったところ、腐敗した伊邪那美の姿を見てしまうことになり、慌てて逃げ出します。
ここで伊邪那美は「よくも女に恥をかかせたな」と怒り、追っ手を差し向けるのですが、この彼女の怒りは、現代の「化粧」をめぐる価値観につながるのではないかと稲田さんは指摘します。
醜く朽ち果てた身体に蛆が湧き、雷神が八柱も憑りついた姿を愛しい夫に見られたことが「恥ずかしい」のである。
翻って考えてみると、女性は化粧をする。化粧をする姿を見せるということは、素顔をさらけ出し、自分が美しく化けるところを見られたことになる。いくら美しく化けたところで、化ける前の姿を見られては興ざめとなる。
(『一気にたどる日本思想』P63より)
つまり、すっぴんで外に出ない、人前で化粧をしないというような美意識は、すでにこの時代から存在していたことになります。こうした視点で読むと、『古事記』が身近に感じられるのではないでしょうか。
なお、最近は不祥事を起こした人がその責任を果たすというニュアンスで使われることがある「ミソギ(禊)」ですが、もともとは黄泉国から戻った伊邪那岐が、穢れたわが身を水で清めた行為を指す言葉です。
今回は『古事記』からエピソードを取り上げましたが、冒頭の通り「記紀」は日本人の根底を流れる思想と深くつながっている書物です。
そして時代が変わり、仏教や儒教の考え方が外国から伝わると、それもまた新たな思想として日本人の間に定着していきました。現代の私たちが持っている価値観は、日本神話から新たに伝来した考え方まで、さまざまな思想が融合し形成されています。
「なぜそう考えてしまうのか?」――日本思想を知るということは、自分自身を知るということでもあるのです。