ソクラテス「ということは、恋にもさっきのことと同じことがあてはまるはずだ。つまり、ぼくたちはまだ自分のものでない人に対して恋をして、それが自分のものになりつつあるときに快感を覚えるわけだけど、まさにこのことのゆえに、相手がすっかり自分の恋人になると恋は消滅してしまうというわけさ」
穴の開いた水瓶に水を溜める
サトル「うーん、本当にそうなのかなあ。なんだか、だまされてるような気もするんですけど」
ソクラテス「だますだなんて、とんでもない。だいいち、この説はキミの答えから出てきたんだよ。それでもこの結論を疑わしいと思うのなら、次のような事実を思い起こしてみるといい」
サトル「何ですか?」
ソクラテス「恋に最大の価値をおく人は、恋が成就するやいなやべつの相手を探しはじめるものだ、ということさ。それから、恋人といったん別れたあとで、同じ相手にもう一度恋い焦がれるということも、そうした人たちの間ではよく見られることだ。これはちょうど、食べることを何よりも重んじる人たちが、満腹になると食欲を戻そうとして、わざと嘔吐するようなものだね」
サトル「そういえば譲二も、しょっちゅう同じ相手とくっついたり離れたりしてました。この間だって、おかしいんですよ。警察に通報されるくらい派手な痴話げんかをやらかして、『あのクソ女め、もう一生許さんぞ!』とか吠えてたくせに、その3日後にはもう、当の彼女と手をつないで、ラブラブで歩いてるんですから」
ソクラテス「ぼくに言わせれば、そういうのはちっともおかしなことじゃないんだな。きっと、その譲二くんとやらは、恋をつづけるために恋人から離れざるをえなかったんだ。一度離れてしまえば、また『自分に欠けているもの』になって、相手を求められるようになるからね」
サトル「なるほど。言われてみると、そんな気がしてきました。『ケンカをするほど仲がいい』という言葉の裏には、そういう真実があったんですね」
ぼくは何かをつかみかけた気がした。しかし、そんなぼくを制するかのように、ソクラテスは眉間にしわをよせ、口もとに指をあてて「しっ」と言った。
ソクラテス「その格言は、恋に重きをおく人にとっては至上の真理だろう。しかし、万人にとっての真理ではない。それでサトルくん、以上の議論をふまえたうえで、キミは恋が成就したあとに何を望む? まだずっとお熱い恋を楽しみつづけたいと思っている?」
サトル「いえ。お話をうかがっていると、だんだんそういう生き方は疲れるんじゃないかと思ってきました」
ソクラテス「同感だ。ずっと恋をしつづけるということは、穴を開けた水瓶に水を注ぎつづけるようなものだからね」
ソクラテスの言うことには妙な説得力がある。話をしているうちに、自分が何を考えているかがだんだん明らかになってくるような……。でも、ちょっとおかしいぞ。さっきから恋愛について否定的なことばかり言ってるじゃないか。ひょっとしてこの人、恋愛をしたことがないんじゃないか?
サトル「あの、ちょっと思ったんですけど、ソクラテスさんって恋愛は不要だというお考えなんですか?」
ソクラテス「恋愛が必要ないだって? とんでもない!」
サトル「え、そうなんですか? ぼくはてっきり、お話を聞いていて、ソクラテスさんが女嫌いなのかと思いましたけど」
ゲイかどうかを直接聞くのはさすがに失礼かと思って、ぼくはちょっと回りくどい聞き方をしてみた。
ソクラテス「女性? 嫌いじゃないよ。どちらかというと、年頃の男の子のほうが好みだけど」
サトル「……は?」
ソクラテス「カルミデスっていう十代半ばの男の子がいるんだ。とってもかわいくてね、上着から少しのぞいたあの薄い胸を見るだけで、もうクラクラしちゃうんだよ」
……やばいぞ。この展開は予想していなかった。
ソクラテス「それに、リュシスって子の美しさも、決してカルミデスに引けをとらない。ぼくはそういう男の子の裸を見るために運動場に行くのが大好きなんだ。それにね……」
サトル「いやいやいやいや! もう勘弁してください。こっちのほうがクラクラしてきました」
ソクラテス「えー、なんでわかってもらえないのかなあ。かわいいのにな、男の子」
サトル「ほんっと、よくわからないです。あなたのことが……」
ソクラテス「そんなふうに言われると照れるじゃないか」
サトル「ほめてませんよ!」
ソクラテス「……さて、と。話がそれちゃったみたいだし、そろそろ本題に戻ろうか」
サトル「そうしてください」
ソクラテス「えーと、キミの質問は、ぼくが恋をどう評価しているのか、ということだったよね?」
サトル「はい、そうです」