理由はこの本に書いていますが、小学校のときの課題図書が、僕にとってはあまりにも面白くなかったから。ルナールの『にんじん』とヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だったんですが、なんでこんな暗い物語を読まなきゃいけないのかと。それ以来読書が嫌いになりました。
その前の、幼児のときは、母が当時流行っていた「世界文学全集」を片っ端から読み聞かせるというのをやってたんです。だから、はじめから本が嫌いだったわけではないと思うんですけど、とにかく嫌いになった。
そういうわけで中学時代、高校時代とほとんど読書をしなかったので、日本文学の名だたるところも全然読んでない。それで東京大学の現代国語の問題に挑戦するわけですが、ほんとに苦労しました。
正直に申し上げますと、当時やっていた「Z会」で出た問題で、けちょんけちょんに赤ペンでけなされた回がありまして、それが悔しくてその問題だけもう一度やったんですよ。そうしたらなんとその問題が出ちゃった。それが出なかったら受かってなかったでしょう。というくらい、現代国語については弱かった。
「純文学を読んでないと人間として欠落する」というある社長の言葉
そんな僕が本を読むようになるきっかけは2つくらいあるんですが、ビジネス書をちゃらちゃら読むくらいだった僕でも、リクルートではトップセールスになっていて、なんというのかな、思いつきで企画を出すというのはできてたんですね。
ところがあるとき、お世話になったプロダクションの社長と銀座で飲んでましたら、「藤原さん、純文学読んでる?」と言うわけですよ。
当時、純文学なんて意味もわからなかったんで、「それって誰のことですか?」って聞いたら、いまだったら宮本輝か連城三紀彦だと。連城三紀彦の『恋文』が芥川賞をとった前後だったと思います。もちろん知りませんから「読んでません」と。
そうしたらその社長が、こういうこと言うんですよ。「藤原さんね、ビジネス書だけを読むのもいいし企画を立てるにはそれでいいのかもしれないけど、純文学を読んでないと、人間として欠落するよ」って言われた。
そのときは全然意味がわかりませんでしたし、このやろうって思った。人間じゃないくらいのことを言われたわけですから。
それが悔しかったんで、その場はやり過ごしておいて、翌日、当時銀座にあった旭屋書店さんに行って、宮本輝さんの棚から偶然手に取ったのが『青が散る』でした。それと連城三紀彦さんは『恋文』を買った。読んでみたらすごく面白くて、それから純文学への旅が始まる、という感じでした。
もう1つのきっかけは、倉田学さんというリクルートの伝説の編集長がいて、『とらばーゆ』とか『フロム・エー』『ゼクシー』『じゃらん』など多くの創刊に関わった人ですが、その倉田さんがこういうこと言うわけです。
「藤原ねえ、本を読んでないやつとは俺話す気がしないわ」という失礼なことを(笑)。でも倉田さんという人のことを、僕はいつもすごいなあと感心して、尊敬してたんです。
なぜかっていうと、ぼくは営業マンとしては成果をあげていましたが、「世の中をどうとらえるか」とか、「世の中の流れはこうだ」とか、「いまの若い人たちの意識はこう変化している」とかっていうことを、まったく語れなかったんですね。そういうことを倉田さんを含めたリクルートの編集長たちは語ることができて、僕はひたすら尊敬していた。「なんでこの人たちには世の中のことがこんなに見えるのか?」と非常に不思議だった。
聞いてみると、そういう人たちはやっぱり読書をしていたんですね。編集長だからというよりは読書をしていたからじゃないかと思うんです。
そういうことが重なって、33歳のときにメディアファクトリー、いまはKADOKAWAグループに吸収されましたけど、この創業に携わったとき、作家や編集者の方と話すのに、とても本を読まないとできないということで、ようやく読むようになりました。
33歳から目標として年間100冊というのを決めまして、接待でどんなに酔っぱらっていても、銀座から永福町に帰るときに寝ないように座席に座らないで立って読んでました。朝の通勤ラッシュでも無理やり読む、というのもやった。
それがクセになって、3年くらいしたら定着してきて、今年ですと、いま(10月19日)もう170冊くらい読んでるという感じで、だんだん早くなりますね。いままで3,000冊ほど読んだでしょうか。
読書家じゃなかったから読書の効能がわかる
今日お集まりのみなさんの中には僕以上に、1万冊も2万冊も読んでる読書家の方がいらっしゃると思います。その方に読書法みたいなことをお話しするのは失礼なので、その気はありません。でも、本を読むことの効果については、そんな読書家の方よりは、もしかして僕のほうがわかっているんじゃないかとも思うんです。