人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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吉良荘と吉良家のこと

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2014/04/07 10:17

さて、三河吉良荘は清和源氏吉良氏のルーツの地でもある。鎌倉時代に足利義氏の子長氏と義継がともに吉良荘の地頭となり、それぞれ吉良を名乗ったのが祖。

嫡流は吉良荘の西半分(西条)を領して西条城(現在の西尾城か)に拠った長氏で西条吉良氏を称し、弟の義継は東半分(東条)を領したことから東条吉良氏と呼ばれた。室町時代になって宗家の足利尊氏が将軍となると、吉良氏は将軍家の縁戚として幕府内で高い地位を得た。

のち、東条吉良氏は陸奥国に所領を得て奥州吉良氏となると、空城となった東条城に西条吉良氏の尊義が拠って、新たに東条吉良氏を称した。これを後期東条吉良氏という。そして、この東西の吉良氏は吉良一族の正統をめぐって争うようになり、応仁の乱でも東西に分かれて戦っている。

戦国時代になると、西条吉良氏の出で養子として東条吉良氏を継いでいた義安が両家を統合して徳川家康に仕え、江戸時代には高家旗本となっていた。元禄赤穂事件の主役、吉良上野介はその末裔である。

一方、奥州吉良氏は室町時代中期に武蔵世田谷(世田谷区)に転じて世田谷吉良氏となり、世田谷城に拠っていた。その城跡は世田谷区豪徳寺に残っている。なお、この末裔も江戸時代はやはり高家に列している。



世田谷城跡看板

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