人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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土津公と保科正之

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2013/01/07 13:47

6日から、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まった。主人公は同志社大学創立者新島襄の妻、八重。会津藩士山本家の生まれで、会津戦争では自ら銃を取って戦ったという、異色の女性である。

ドラマの中でもあったように、会津藩の藩主と藩士は、代々『会津家訓十五箇条』を遵守することを旨とした。幕末、他藩が次々と薩長側に寝返る中で、会津藩が最後まで戦ったのも、この『会津家訓十五箇条』に従ったものである。

この『会津家訓十五箇条』を定めたのが、初代藩主で“土津(はにつ)公”と崇められた保科正之である。そして、会津藩は土津公以来の特別な家柄であるという矜持が、会津藩独特の士風を生んだといえる。

では、なぜ会津「松平」家の初代藩主が「保科」正之で、特別な家柄なのだろうか。ドラマでは説明されなかったので簡単に書いておきたい。

初代会津藩主保科正之は、二代将軍徳川秀忠の三男で、三代将軍家光の異母弟にあたる。しかし、実母の身分が低かったために信濃高遠藩主保科正光の子として育てられ、兄家光もその存在を知らなかった。

その後、対面した家光から絶大な信頼を受けて会津藩主に抜擢され、家光の死にあたっては、枕頭にて「宗家を頼みおく」と託されたという。そこで定めたのが『会津家訓十五箇条』で、会津藩が土津公以来の特別な家柄となった由来である。

なお、正之は家光と対面を果たした後も、育ててくれた保科正光への恩義から「保科」を名乗り続けた。会津藩主が「松平」を名乗ったのは、三代藩主正容からである。
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