人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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東海道を歩いてみた(14)

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2010/05/24 11:29

三島市の隣の清水町では、久しぶりの道の両側に一里塚があった。とはいっても、片方は復元のようだ。しかし、これを一里ごとに道の両側に造るのは大事業だったに違いない。

この少し先で、少し広めの川を渡る。渡り終わってから、橋の欄干をみると「黄瀬川」とある。



黄瀬川


黄瀬川といえば、頼朝・義経兄弟の対面の場として有名だ。安田靫彦の代表作「黄瀬川陣」は教科書でもおなじみ。

国道380号線沿いの八幡神社には頼朝と義経の対面石が残っていたらしいが、旧道を歩いていたため気がつかず、残念ながら通り過ごしてしまった。この対面で、頼朝は奥州からはるばる駆けつけた義経を弟ではなく家臣として扱った。兄弟とはいえ優遇しない頼朝を「冷徹」ともみれるし、軍の中核をしめていた舅の北条氏に対して遠慮せざるを得なかった苦衷ともとれる。

さて、富士山がはっきりと見えてくると、いよいよ沼津。沼津という地名の由来は、「沼」の多かった「津(港)」。また、沼津の町にはいろいろな顔がある。文字通りの港町に加え、水野家五万石城下町で、かつ東海道の宿場町。現在でも東西に長い静岡県の東の拠点となっている。

沼津を過ぎると道は海岸沿いへ。ここからは、右側が民家、左側は松並木という単調な風景がしばらく続く。

原宿では、広重の浮世絵のような、画面からはみ出るほどの富士を期待したが、残念ながら雲の向こうに隠れてしまった。



沼津からみる富士


ここはかつては海で、やがて土砂が堆積して沼地となり、付近は浮島ヶ原と呼ばれた。
鎌倉時代に書かれた「東関紀行」でも、「昔は海上にうかび、蓬莱の三つの島の如くありけるによりて浮島と名付けたり」と出ている。

また「平家物語」では、甲斐や信濃の諸源氏が頼朝のもとに馳せ参じ、「浮島が原」で20万騎が勢ぞろいしたとある。この浮島ヶ原が2つの分かれたのが浮島地区と原地区で、原地区が江戸時代に東海道の宿場となった。

今ではそうした歴史の面影はなく、ひっそりとした田舎道であった。
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