日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2005/12/12 09:45
前回のブログで、六本木ヒルズは赤穂浪士のうち10人が切腹した場所だ、と書いたが、では討ち入りの場所はどこかご存知だろうか。雪の降りしきる中、火事場装束の集団が立派な門を乗り越えて襲撃する場面は誰でも知っているが、あれが江戸のどのあたりのことかを知る人は少ない。
吉良上野介は高家という高い家柄で、浅野内匠頭に切りつけられた当時は江戸城内の屋敷に住んでいた。しかし、事件後に引退すると、大川の向こう側という、当時としては辺鄙な場所である本所松坂町に移らせられたのだ。
本所松坂町という地名は、今では両国に吸収された。JR総武線両国駅の南側、ネズミ小僧の墓で有名な回向院の近くで、両国2丁目から3丁目にかけてのあたり。本所松坂町公園という小さな公園があるが、実際の吉良屋敷は公園の数十倍もあり、1000坪ほどあったらしい。
このあたりは、元々は幕府の竹蔵だったが、江戸の町が肥大化したことから、元禄年間頃に武家地となった。本所とは“本村”と同じで中心地という意味。松坂町の由来は諸説あって不明。ただし、伊勢の松坂とは関係はなさそうだ。
そもそも、両国という地名は、大川を渡ると武蔵国から下総国になってしまうことからきている。江戸時代初期に橋ができた際、2つの国にかかっていることから「両国橋」と呼ばれ、それが地名になったもの。赤穂事件の頃には両国は下総国から江戸に転籍している。
当時の両国は、言ってみれば市町村合併で大都市に編入された新興住宅地みたいなもの。名家の生まれで、江戸城内に住み、儀礼に通じていた吉良上野介にとっては、両国や本所などは人の住む地ではないと感じていたに違いない。
さて今回もトリビアを一つ。討ち入りのあったのは元禄15年12月14日。深夜に討ち入り、明け方に本懐を遂げた。そのため、14日の早朝のことと思っている人が多いが、実は当時は夜明けとともに日が変わった。従って、現代人の感覚でいえば、討ち入りがあったのは15日の夜明け前のことである。