人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

●サイト(オフィス・モリオカ)
  → https://office-morioka.com/
●ツイッター
  → http://twitter.com/h_morioka
●facebookページ
  → https://www.facebook.com/officemorioka/
●Instagram
 → https://www.instagram.com/office_morioka/

 

島津家は頼朝のご落胤?

このエントリーをはてなブックマークに追加

2008/01/15 10:28

前回、篤姫の出自は系図と異なる、と書いたが、実は島津氏そのものも系図上では粉飾されているのだ。

江戸時代後期、幕府は各大名や旗本に系譜の提出を命じた。それに幕府の学者が校訂を加えたものが「寛政重修諸家譜」として刊行されている。いわば、幕府の編纂した公式の系譜集である。

さて、この巻第百八に「清和源氏為義流」として、島津氏が掲載されている。これを見ると、島津家の祖忠久の項目には「頼朝将軍の落胤なり。母は比企判官能員が妹、丹後局と称す」とと書かれている。そして、そのあとには延々と、なぜ忠久が頼朝の子どもとして表にでなかったかが記されている。

「寛政重修諸家譜」では、編纂者がおかしい、と考えたものには、「誤りか」「計算が合わない」「〜とあるが未詳」などといった註を入れているのだが、島津氏の項には特に何も書かれていてない。

当時、島津氏は頼朝の落胤の末裔というのはかなり信じられていたらしい。或いは、いくら幕府の学者とはいえ、大身島津家の系図にケチをつけることはできなかったのかもしれない。

いずれにしろ、現在このことを信じている学者はいない。島津氏は近衛家に仕えた惟宗氏の末裔で、忠久が頼朝に大抜擢を受けたことから、落胤説が生まれたと考えられている。

しかし、正式の史料に「頼朝の落胤」と書かれていることから、予備知識なくこの史料をみるとつい信じてしまう。実際、これを根拠として島津忠久は頼朝の子どもとした系図を掲げている書籍やサイトもあるようだ。「生兵法はケガのもと」ということか。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ページのトップへ