人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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酒田と本間家

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2024/12/03 10:42

清遠閣

盛岡のあとは32年振りに山形県の酒田市に。酒田といえば本間家である。

江戸時代、酒田にあって日本一の豪商ともいわれた本間家の歴史は意外と新しく、元禄年間頃に、原光が新たに分家して新潟屋を創業したのが祖。そのルーツは相模国で、庄内を経て酒田に入った。

江戸時代には、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謡われた日本一の大地主として有名になった。明治維新後も本間家だけで酒田市の租税の四分の一を納めるほど羽振りがよかったが、戦後の土地解放政策などで没落した。

現在、市内には本間家旧邸が残っている。明和5年(1768)、本間家3代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎としてに新築して庄内藩主酒井家に献上したもので、長屋門と薬医門を構える武家屋敷。巡見使一行が江戸に戻ると改めて酒井家から屋敷を拝領し、昭和20年まで当主が住んでいた。

本間家旧邸

またこれとは別に別荘が本間美術館として公開されている。美術館には尾形光琳の絵や後陽成天皇の書がさりげなく飾られているなど、その懐の深さをうかがうことができる。

また、池泉廻遊式の庭園鶴舞園は大名庭園のように立派で、紅葉が美しい。庭園の整備は港で働く人々の冬期の失業対策事業として実施されたといい、現在は国指定名勝である。庭の一角にある別荘清遠閣からの眺めは、かつての大豪商の生活の一端を垣間見ることができる。

鶴舞園

酒田市の中心部は昭和51年の大火で焼失したため古い建物はあまり残っていないが、本間家の旧本邸はギリギリのところで類焼を免れたとのこと。湊の近くには、明治26年旧藩主酒井家によって建てられた米保管倉庫である、山居倉庫も残っている。

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