人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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立川市にある立河氏館跡

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2024/11/12 10:32

立川市柴崎町に、東京都内では数少ない中世武士の館跡があるというので行ってみた。JR中央線の立川駅で多摩モノレールに乗り換え、柴崎体育館駅で下車。西に10分ほど歩くと、普済寺というお寺が見えてくる。ここが中世武士立河氏の館跡である。中世武士の館跡が後に寺となることは珍しいことではない。

立河氏は東京都多摩地区に広がっていた武士団、西党に属していた。現在の立川市付近は古くは「立河」と書き、平安末期から鎌倉時代にかけてここを本拠としていた武士が立河氏である。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも「立河兵衛尉」「立河三郎兵衛尉基泰」といった名がみえる他、南北朝時代にも、北朝方の高師冬に属した武士として立河二郎左衛門尉がいたことが知られている。

立河氏は室町時代に没落したとみられ、その後館のあった場所に、立河氏が開基した普済寺が移されてきたらしい。寺は残堀川に面した丘陵地の崖上に建てられており、広く見渡すことができる。また、寺の周囲には多くの土塁が残っており、ここが館跡であったことがわかる。

なお、戦国時代になると北条氏の家臣に立川氏があった。この西党立河氏の末裔だと思われるがはっきりしない。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで敗れて北条氏とともに没落、江戸時代は水戸藩士となっている。

 

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