日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/07/23 10:30
21日のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、渡辺大知演じる藤原行成が藤原道長の頼みで一帝二后について一条天皇を説得。道長から自身と子孫の昇進を約束された。当時、道長はすでに時の権力者で、人事は自分の意思で行うことができる。では、行成とその子孫はその後どうなったのだろうか。
そもそも行成は道長の従兄の子で藤原家中枢に近い生まれだが、父義孝は21歳で死去したため父の官位は正五位下にすぎなかった。現在行成は、小野道風、藤原佐理とともに「三蹟」の一人に数えられる書家として知られてる。
しかし、行成はただの書家ではなく、一条天皇と道長の信任が厚く、このあと正二位権大納言という高い地位にまで昇進する。道長の言は実行されたのたである。
行成の書は世尊寺流と呼ばれ、その2代目を継いだのが五男の行経。行経も従二位参議まで昇進した。さらにその子伊房も正二位まで昇進したが、大宰権帥時代に遼との密貿易事件を起こして失脚。以後は公卿(三位以上)に昇ることができず、書で知られる中級公家となっていった。
鎌倉時代になると、行能が家号を「世尊時」として堂上家に復活し、以後代々堂上公家として続いた。ところが、戦国時代の17代目行季は後継ぎがいないまま死去。公家としての世尊時家は断絶した。
当時の後奈良天皇は世尊時流の書の消滅を惜しんで、その門人だったとみられる持明院基春にその書風を継承させ、以後持明院流と呼ばれた。なお、江戸時代に最も一般的だった御家流(尊円流)の書風も世尊時流の一派である。