日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/06/11 10:36
内子のあと、加藤家6万石の城下町だった大洲、宿場町の風情を残す卯之町を歩き、予讃線の終点宇和島まで行った。宇和島市は南予の中心都市である。
戦国時代、南予には戦国大名西園寺氏がいた。公家西園寺氏の一族という珍しい出自の大名である。鎌倉時代に西園寺公経が伊予国宇和郡を領したのが祖で、南北朝時代に宇和荘に逃れた一族がそのまま土着したものというが、本家との関係はよくわからない。
戦国時代には黒瀬城(西予市宇和町)に拠って宇和郡全域を支配していた。のち豊臣秀吉の四国攻めで敗れ。新たに宇和郡の領主となった秀吉家臣の戸田勝隆に西園寺公広が殺されて滅亡した。
この西園寺氏の庶流に、来村(くのむら)西園寺氏という一族がいた。この一族が築いたのが板島丸串城で、文禄4年(1595)そこに藤堂高虎が入城して、城下を板島から宇和島と改称した。
江戸時代になると、伊達政宗の長男(庶子)秀宗が10万石で宇和島に入り、以後江戸時代を通じて南予を支配した。このとき、秀宗は仙台から多くの家臣を連れてきている。
宇和島城の城山北登城口にある立派な長屋門は、代々宇和島藩家老をつとめた桑折(こおり)家のもの。桑折家の名字の地は陸奥国伊達郡桑折(福島県伊達郡桑折町)で伊達氏の庶流と伝える。秀宗が宇和島藩主になるに際して政宗の命で家老として赴任、以後幕末まで代々家老を務めた。
宇和島城は戦災もまぬかれ、現存12天守の1つとなっている。また、城下には伊達家の庭園、天赦園も残る。
ちなみに、幕末に宇和島藩主伊達宗城の側近をつとめた松田覚助は戦国大名だった西園寺氏の子孫といい、のちに西園寺公成と改称している。現在でも「西園寺」という名字は愛媛県に多い。