人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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伊予河野氏のルーツと善応寺

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2024/05/28 10:58

先日、愛媛県松山市で講演を行った。愛媛県と言えば、河野氏である。講演でも取り上げたのだが、そのルーツの地には碑が建っているということなので、この機会に訪れてみた。

河野氏は伊予を代表する武家で、全国の「河野(こうの)」さんのルーツとされる。その歴史は古い。伊予の古代豪族越智氏の庶流で、文武天皇の時代に越智玉興が伊予大領となり、弟の玉澄が河野郷(愛媛県松山市)に住んで河野氏を称したのが祖と伝える。

平安時代中期、河野好方が藤原純友の乱の鎮圧に活躍し、以後水軍を擁して伊予にに勢力を振るった。源頼朝が挙兵すると、通清・通信父子がいち早く呼応して伊予で挙兵、通信は西下してきた源義経の軍勢に加わり、屋島の合戦などで功をあげた。さらに奥州攻めにも参加して鎌倉幕府の成立後は幕府の御家人となった。

承久の乱で上皇方に属したことから一時衰退したが、幕府方に参加した通久が再興し、南北朝時代には通盛が足利尊氏に属して本拠を湯築城に移し、以後戦国時代まで、伊予の有力大名として続いた。通盛は湯築城に本拠を移す際に、それまでの居館を改築して善応寺とし、以後同寺は河野氏の氏寺となった。

善応寺があるのは松山駅から1時間に1本の予讃線各駅停車で6駅目の柳原駅。予讃線は各駅停車よりも特急の方がはるかに多く、特急の止まらない駅では極端に本数が少ない。予讃線は海に近い所を通っており、柳原駅も柳原漁港の近く。そして、ここから山に向かって広がる一帯が「河野」と呼ばれた場所で、現在も一部が「河野別府」という地名として残っており、近くの小学校も河野小学校だ。

河野付近の様子

この田園風景の中を山に向かって2キロほど歩いたところに善応寺があり、境内入り口には「河野氏発祥之地」の碑が建てられていた。寺は7堂13塔頭を擁する大きなもので、通盛の墓所もある。

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