人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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取手宿と染野家

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2024/05/07 10:55

旧取手宿本陣染野家住宅の立派な梁

JR常磐線で利根川を越え、茨城県に入った最初の駅が取手駅である。東京のベッドタウンとして栄え、平成の大合併で藤代町と合併してからは人口も10万人を超えて茨城県南西部の主要都市として発展している。ここがかつて宿場町だったということはあまり知られていない。

取手市によると、そもそも「取手」という地名の由来は戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦があったことに因むという。この大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城)があったのは現在の取手競輪場のあたり。遺構は残っていない。江戸時代初期には大鹿取手村といい、やがて水戸街道が通ったことで大鹿村と取手村に分かれ、取手村は水戸街道の宿場取手宿として発展した。

この取手宿で本陣をつとめたのが染野家である。

染野家は代々取手宿の名主をつとめる傍ら、貞享4年(1687)水戸徳川家から本陣に指定された。取手駅から南東に8分ほど歩いたところにある「染野本陣ビル」の脇を入ると、「旧取手宿本陣染野家住宅」が残っている。

寛政6年(1794)の取手の大火で焼失したため、翌年に建築された主屋の他、江戸時代の建物として土蔵と表門が残っており、昭和62年(1987)に敷地が市の史跡に指定され、さらに平成8年には主屋と土蔵が県文化財の指定を受けた。

主屋には水戸藩主が使用した一段高い上段の間があり、本陣の裏山には水戸藩第9代藩主徳川斉昭の歌碑もあるなど、水戸徳川家が本陣として利用したことがわかる。

現在は一般に開放され、無料で見学ができる。訪れたときはモッコウバラが満開だった。

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