日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/03/19 10:28
伊豆の修善寺に行ってきた。青春18きっぷで三島に行き、伊豆箱根鉄道駿豆線で終点の修善寺駅へ。ここからさらにバスに乗り換えて修善寺温泉に。「温泉」とはいうものの、修禅寺や、弘法大師が開いたという独鈷の湯などの史跡も多く、普通の観光地である。
修禅寺はちょうど修善寺寒桜が満開だった。因みに、地名としては「修善寺」だが、寺の名前は「修禅寺」と漢字が違う。本来の名称は福地山修禅萬安禅寺で、後にこれの略称「修禅寺」が正式名称となったものだが、もともとは「修善寺」で禅寺となった際に「禅」に改められたという。
さて、修善寺は日本文学とも関係が深い。なかでも、鎌倉幕府2代源頼家と面作りの夜叉王を描いた岡本綺堂の出世作「修禅寺物語」は有名だ。
また、夏目漱石が修善寺で大喀血した「修善寺大患」は文学史上の重大事件として知られる。東大を辞して東京朝日新聞社に専属作家として入社した漱石は、同紙に「虞美人草」を連載後、「三四郎」「それから」「門」の中期三部作を発表。明治43年に胃潰瘍のため伊豆修善寺で療養生活を送るが、大喀血して危篤状態となり「一時的な死」を体験した。
荒正人の大作『増補改定 漱石研究年表』(集英社)という書籍がある。漱石の生涯を極めて詳細な年表にしたもので、漱石の毎日の様子が詳しく記載されている。この本によると、明治43年8月12日に「1.8リットルほど吐き、氷と牛乳のみで命を保つ」とある。そして、家族や安倍能成らが修善寺に駆けつけている。
この事件はその後の作品に影響を及ぼし、「こゝろ」「道草」「明暗」の後期三部作では苦悩する近代知識人の内面を描き、近代日本文学を代表する作家となった。このときの様子は、漱石の随想「思ひ出す事など」にも詳しい。