日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/02/27 10:13
突然冬に逆戻りしたような気候のなか、唯一暖かった24日に千葉市美術館を訪れた。「鳥文斎栄之展」の期日が迫っていたからだ。
鳥文斎栄之は江戸時代後半の武家出身の浮世絵師。武家出身の浮世絵師はそれ程珍しくはなく歌川広重も武家の出。しかし、広重の実家が火消同心の御家人であるのに対し、鳥文斎栄之は会場に掲載されていた年譜によると500石の旗本細田家の出だという。とすると『寛政重修諸家譜』に掲載されているはずだ。
ということで、帰宅して早速『寛政重修諸家譜』を確認してみた。同書巻942にある細田家が鳥文斎栄之の実家で、栄之は時富という名で記載されている。
その系譜によると、細田家は藤原北家秀郷流佐藤氏の一族で代々甲斐国に住み、戦国時代には武田氏に従っていた。正時のときに武田氏が滅亡したため徳川家康に仕え、子吉時は大久保長安のもとで佐渡で勘定奉行をつとめた。吉時の子時包は大久保長安事件に連座して改易、子成時は叔父重時の養子となって家系をつないでいる。
栄之の家はこの分家にあたり代々勘定役であった。曾祖父の時以と祖父時敏はともに勘定奉行をつとめて500石を知行している。しかし、父時行は36歳で死去したため、時富(栄之)は17歳で家督を継いだ。
時富の記述は簡単で、10代将軍徳川家治の小納戸役に列したのち34歳で致仕。妹の夫和三郎を養子として家督を譲ったとある。『寛政重修諸家譜』は幕臣として以外のことはほぼ記載されないので、時富が栄之であることはここからははわからない。
図録によると、時富は家治のもとで絵の具方を務め、その命で「栄之」と号した。しかし家治が亡くなったことから致仕、隠居して絵師鳥文斎栄之となったという。
栄之は寛政年間(1789~1801)には喜多川歌麿と並ぶ浮世絵師として活躍、その後は肉筆画を多く描いた。