日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/12/19 10:20
12月にJR東日本の2回目の「大人の休日倶楽部パス」発売があり、これに合わせて山形方面に出かけて来た。
まず訪れたのは米沢。江戸時代、米沢藩の藩主は上杉家だった。上杉謙信の末裔で、「どうする家康」にも登場していた上杉景勝の子孫である。関ヶ原合戦では景勝は石田三成に呼応したため、戦後会津120万石から出羽米沢に転封のうえ30万石に削られた。
寛文4年(1664)には藩主綱勝が後継ぎがないまま死去。綱憲が末期養子となって相続したものの、陸奥国信夫郡と伊達郡の所領を削られて石高はさらに15万石と半減した。このとき、取り潰しになりそうだった上杉家を救ったのが綱勝の岳父保科正之と、妹富子の夫吉良義央で、相続した綱憲は生まれたばかりだった義央の長男である。
「忠臣蔵」として有名な元禄赤穂事件で、赤穂浪士の討ち入りに際して義央を米沢藩主綱勝が助けようとしたのは、義央が綱勝の実父だったからだ。しかし、米沢藩としては他家の不始末に過ぎず、うかつに関わりあってこれ以上石高を減らすことは容認できなかった。
多数の家臣を抱えた米沢藩は貧困に苦しみ、後に藩政改革で有名な上杉治憲(鷹山)を生んだ。この治憲も、日向高鍋藩主秋月種美の二男で養子であった。治憲は名家上杉家の格式を重んじる家風に苦しみながらも、藩政改革を成し遂げた。
米沢城址の北に1キロほど歩くと、城下町のはずれの杉木立の中に、森厳としたたたずまいの上杉家御廟所がある。代々の藩主を祀っているのだが、これだけ立派な墓所も珍しい。中央には祖謙信の廟があり、そこから左右に代々の藩主の廟が並んでいる。