日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/09/12 10:40
さて、先週紹介した洗足池付近は、大正時代までは雑木林と湿地帯の広がる場所だった。幕末江戸に攻め上ってきた新政府軍は、池上本門寺に本陣を置いた。幕府側を代表する勝海舟は、新政府軍の西郷隆盛と江戸城開城について談判するために池上本門寺を訪れた際、洗足池で休憩をとっている。
そのときにこの景色を気に入った海舟は、明治24年洗足軒といわれる別荘を構えて移り住んだ。近くには2つの五輪塔が並んだ「勝海舟夫妻墓所」があり、大田区立勝海舟記念館が建てられている。
武蔵野の面影を残すこの付近が開発されたのは大正時代のことである。大正7年、渋沢栄一は欧米の都市を念頭において、東京郊外に新たな田園都市を建設するために田園都市株式会社を設立した。同社の役員となった栄一の四男秀雄は、欧米視察から帰国すると碑衾村(大岡山・自由が丘付近)から馬込村にいたる広大な土地を買収し、鉄道を通して住宅地として分譲した。
大正11年、最初に分譲が開始されたのが池上地区である。その半年後には関東大震災が勃発、人々は都心から郊外へと移り住み、池上は高級住宅として注目を集めた。
さて、洗足池にはもう1つ有名な逸話がある。それが、頼朝の名馬「池月」に因む伝説だ。
治承4年(1180)、石橋山合戦で敗れて安房に落ちていた源頼朝は、勢力を回復して鎌倉を目指して進む途中、洗足池(当時は大池)のほとりで野営した。そのとき1頭の立派な馬が現れたため郎党が捕らえてみると、青い毛並みに白の斑点の浮かんでいる様子が、まるで「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられ、以後頼朝所有の馬となった。
この「池月」は宇治川合戦の際に佐々木高綱に与えられ、同じく頼朝から「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季との間で先陣争いが繰り広げることになる。池のほとりには「池月」の銅像があり、その前には「池月橋」という橋も架けられている。