日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/05/30 10:26
尼子氏のルーツの地から少し歩いたところに、甲良町在士(ざいじ)というところがある。ここは藤堂氏のルーツの地である。
在士は古くは藤堂村といわれていた。というのも、同地にある八幡神社は藤が咲くことで有名で、「藤堂の祠」と呼ばれていたことに因むと伝える。藤堂氏の祖は三河守景盛という人物で、景盛がここに石清水八幡宮を勧請した際に藤を植えたという。そして、足利将軍家に仕えた際に名字を「藤堂」に改めたとされる。
藤堂氏は、江戸時代の系譜集『寛政重修諸家譜』では藤原氏支流に治められているが、本来の出自は中原姓、宇多源氏などの説もありよくわからない。高虎が藤原姓を称したことから、一般的には藤原姓とされている。
また、かつては藤堂村の一介の地侍にすぎなかったとされていたが、どうやら公家広橋家の家臣としての顔も持っており、京と近江の2か所を拠点とする有力武家だったらしい。
室町時代には京極氏に、戦国時代虎高(高虎の父)は浅井亮政に仕えた。高虎は浅井氏、織田氏を経て豊臣秀吉に仕えて頭角をあらわし、伊予板島で7万石を領した。関ヶ原合戦後には今治20万石を経て、伊勢安濃津22万石余に転じて津藩を立藩している。徳川家康との関係も深く、「どうする家康」に登場する可能性も高い。
藤堂村は、江戸時代初期に彦根藩によって在士村と改められた(年代には異説有り)。しかし、今でも藤棚がつくられ、藤堂氏のルーツの地として盛り上げられている。