日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/03/28 10:12
先週紹介した穴山氏の居館跡から、七里岩の側面を下る急な坂道を降りた先に、穴山梅雪が中興開基という満福寺がある。ここは穴山氏の菩提寺で、本堂の裏の山の斜面に穴山氏一族の墓所がある。
境内の案内板には「寺記に信君の墓とあるが、むしろ室町初期の穴山義武、満春とみる方がより近い」とあり、実際その通りだろう。寺伝などでは盛った話もあり、有名な人物の墓とした方が一般受けはいいのだろうが、冷静な案内には好感が持てる。
「どうする家康」に登場している梅雪は穴山氏の7代目。その父信友は武田信虎(信玄の父)の娘南松院殿を娶って武田御一門衆に列し、南巨摩一帯を支配した。
その子梅雪も武田信玄の娘見性院を娶って信玄の女婿となっており、2代にわたる婚姻で一族衆として大きな力を持っていた。公的文書でも「武田」の名字の使用を許されているなど、分家というよりは一族としての扱いだった。
さて、以下はネタバレ。梅雪は武田勝頼から江尻城代に任ぜられて武田領のうちの東海方面を統括したが、やがて徳川家康に内通。織田信長の武田攻めに際しては謀叛を起こして武田氏の滅亡を決定づけた。
この際、武田氏の家督を相続する予定だったというが、3ヶ月後に家康とともに上洛した際に本能寺の変に遭い、逃げる途中に落命した。梅雪には彦八郎・彦九郎という弟があり、その末裔は身延で帰農しという。
ところで、帰途の道端で面白い看板を見つけた。そこには、穴山町伊藤窪区宮の窪とある。「伊藤」のつく地名は珍しい。