人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

●サイト(オフィス・モリオカ)
  → https://office-morioka.com/
●ツイッター
  → http://twitter.com/h_morioka
●facebookページ
  → https://www.facebook.com/officemorioka/
●Instagram
 → https://www.instagram.com/office_morioka/

 

松平郷から岡崎平野に進出した松平一族

このエントリーをはてなブックマークに追加

2022/12/13 10:51

松平氏が西三河の山間部から岡崎平野に進出したのは、室町時代中期の3代信光のときである。そして、松平氏は信光の代から歴史上の一族となる。

信光が本拠としたのは、松平郷の南西にある岩津地区。三河山地の末端が矢作川に迫っているところで、その中腹にあった岩津城からは岡崎平野が見渡せた。ここを根拠とする一方で政所執事伊勢氏の被官となるなど、幕府との関係も築いていた。また、弟の益親は京都で金融業も営んでいたなど、すでに一介の土豪は違った動きを見せていた。

岩津城址周辺の竹林

信光は多くの子を三河一円に分家させ、一四松平とも一八松平ともいわれる大きな一族をつくりあげた。信光の建立した信光明寺には親氏・泰親・信光の3代の墓がある。

松平三代の墓

しかし、嫡男親長は侵攻してきた今川氏に敗れて岩津松平氏は没落。代わってこの侵攻を食い止めた安祥松平氏が松平一族の惣領の座に就いた。室町時代には実力ある者が惣領となった。

安祥松平氏は岡崎城にいた一族を討って岡崎城に転じ、以後岡崎を本拠として松平一族を統率、近隣の諸氏を降して三河を代表する武士に発展した。のちに徳川家康となる松平元康はこの子孫にあたる。しかし一族内の争いは続き、清康(家康の祖父)が家臣に殺されると、子広忠は一時桜井松平氏によって惣領の座を奪われている。

広忠は後に惣領に就くものの家臣に殺され、家康はその嫡男でありながら今川家の人質として駿府に送られることになる。

このエントリーをはてなブックマークに追加

ページのトップへ