人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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伊東市内を歩く

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2021/07/05 10:06

東海館

伊東市には他にも中世武士の痕跡が残っている。市内の音無町にある音無神社は源頼朝に因む神社だ。

「曽我物語」によると、北条政子と結婚する前に、頼朝はこの森で伊東祐親の娘八重姫と逢瀬を重ねたとある。平家方の祐親は激怒して2人の間に生まれた千鶴丸を殺した。やがて頼朝が挙兵すると敗れた祐親は捕らえられ、娘婿の三浦義澄の嘆願で助命されたものの自害した。

市内には、馬場町、竹の内町という地名も残っている。馬場はいうまでもなく、馬の調練をしたところ。

また、中世の武士は弓矢の材料などにするために、館には竹を植えて竹藪をつくっていた。そのため、中世武士の居館跡にはしばしば「竹」のつく地名が残っている。「竹の内」という地名は伊東氏の館の内側に因むものだろう。

さらに、高台にある伊東市役所前の公園は「物見塚公園」。物見とは城や館から外の様子を見るために設けられた台や楼のことで、この町が伊東氏を中心に成り立っていたことがわかる。最後に立ち寄ったのが、木造3階建てかつての旅館東海館。現在は文化施設として公開されており、120畳の大広間など、豪奢なつくりを見ることができる。望楼からは初島も遠望できた。

 

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