人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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足利将軍家のその後

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2020/12/21 14:12

画像はNHK公式サイトよりキャプチャ

20日の「麒麟がくる」では、第15代将軍足利義昭が織田信長に追放された。

実は義昭は追放後も将軍職ではあり続け、反信長の姿勢を貫いて毛利氏の支配下にある備後鞆に亡命している。やがて信長が本能寺で倒れ、光秀が山崎合戦後討たれたあと、豊臣秀吉の九州平定後になって将軍職を辞し、出家して秀吉から山城槙島で1万石を認められた。義昭が大坂で没したのは慶長2年(1597)のことで、信長・光秀よりも15年も後のことである(秀吉は翌年死去)。

義昭には後継ぎがおらず、足利将軍家は断絶した。しかし、江戸時代に足利家の末裔の大名がいた。足利将軍家は、関東を治めるために鎌倉に一族を配し、鎌倉公方と呼ばれていた。鎌倉公方はやがて将軍家と対立したことから6代将軍義教に討たれ、子孫は下総古河に転じて古河公方と呼ばれていた。

この古河公方の末裔が戦国時代に下野喜連川(きつれがわ、栃木県さくら市)に移り住んで喜連川氏と改称、江戸時代は実質5000石ながら10万石格の大名として諸侯に列していた。明治維新後は子爵となって足利氏に復し、先代の足利惇氏は東海大学学長もつとめた歴史学者として有名だった。

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