人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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妹尾の戸川家

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2020/10/19 10:23

中世に妹尾一族が栄えていた妹尾は、江戸時代には戸川家の陣屋町として栄えた。戸川家は一般的な知名度は低いが、江戸時代初期には備中庭瀬藩2万9000石の藩主をつとめた、山陽地方を代表する名家の1つであった。嫡流は延宝7年(1679)に後継ぎがおらず断絶したものの、撫川(なつかわ)・早島・中島・帯江・妹尾と5家の分家があり、いずれも陣屋を構える高禄の旗本であった。

なかでも撫川妹尾家は5000石を知行し、交代寄合という準大名としての高い地位を有していた。5家合わせるとその知行地は1万石を超えて実質大名クラスであった他、各家とも積極的に新田開発を行い、幕末には5家で2万石ほどの石高があったという。

このうち妹尾の戸川家は、江戸時代を通じて妹尾から東に広がる児島湾を干拓して新田を広げ、1500石の表高に対して幕末には実質4500石に及んでいた。児島湾の干拓は戦後まで行われ、筆者が子どもの頃は八郎潟とともに教科書にも大きく取りあげられていた。JR宇野線が妹尾から八浜にかけて直進せずに大きくCの字を描いているのは、干拓前の古い集落をたどっているからだ。

妹尾陣屋は現在では井戸のみが残っている。また、戸川家の墓所は近くの盛隆寺にある。

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