日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2019/04/08 10:36
真清田神社のあと、尾張一宮駅から東海道線に1駅乗って、木曽川駅で降りた。木曽川駅の所在地は一宮市木曽川町黒田で、駅から南に3分ほど歩いたところに史跡・黒田城跡があり、史跡隣の黒田小学校が遺構であるとみられている。
黒田城は何人かの城主が入れ替わっているが、戦国時代に織田信長の親類にあたる岩倉織田家の家老、山内盛豊が城代をつとめていたことで知られる。山内盛豊とはのちに土佐藩初代藩主となる山内一豊の父で、近くの法連寺には盛豊の墓がある。
一豊もここで生まれたといわれ(異説もある)、史跡の敷地内には、「内助の功」の逸話に因む馬を曳く一豊の小ぶりな銅像が建立されていた。
黒田城の築城時期ははっきりしないが、もともとは五藤氏の屋敷があったとされる。五藤氏はこの地の在地武士で、現在でも駅周辺には「五藤」という名字の家が散見された。一方の山内氏は盛豊以前ははっきりせず、岩倉織田家の家老となって黒田城に住んだものとみられ、以来五藤氏は山内氏の譜代の家臣となった。
五藤為浄は13歳で山内一豊に仕え、天正元年(1573)の朝倉氏との戦では一豊が三段崎勘右衛門に左眼傍から右奥歯に射通されたが、為浄は土足のまま主君一豊の顔を踏んで矢を抜き一命を救った。
江戸時代、五藤家は土佐藩の家老をつとめており、為浄の抜いた矢の根は五藤家の家宝となっている。