人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

●サイト(オフィス・モリオカ)
  → https://office-morioka.com/
●ツイッター
  → http://twitter.com/h_morioka
●facebookページ
  → https://www.facebook.com/officemorioka/
●Instagram
 → https://www.instagram.com/office_morioka/

 

三浦和田氏と中条氏

このエントリーをはてなブックマークに追加

2024/12/17 10:53

村上の次は胎内市の中条駅で下車。「なかじょう」と読む。ここは「中条」という名字のルーツの1つでもある。「条」とは律令制に基づく土地の区画を指しており、「中条」とは「中央の条」という意味だ。

鎌倉時代、ここには相模和田氏の所領があった。鎌倉幕府は成立直後から有力武士達の激しい攻防が続いた。

北条氏との争いに敗れて滅亡した和田氏のうち、和田重茂は宗家の三浦氏とともに北条氏方についた。そして、重茂の子時茂は三浦氏と北条氏が争った宝治合戦でも北条氏方についたことから、三浦一族の有力武士としては唯一生き残り、以後三浦一族の総領家となった。

時茂は所領の越後国蒲原郡奥山荘(新潟県胎内市)に下向、三浦一族の総領であることから、三浦和田氏と呼ばれた。

建治3年(1277)時茂は所領を3人の孫に分与、子孫はそれぞれ中条氏、黒川氏、関沢氏の三流に分かれている。このうち惣領として所領の中央部分を受け着いたのが中条氏で、以後同地の有力一族として戦国時代まで続いている。

この中条氏の所領があったのがここで、中条駅から15分ほど歩いたところにある江上館跡が中条氏の居館跡である。現在は「奥山荘歴史の広場」として整備されており、傍らには奥山荘歴史館も併設されている。

奥山荘歴史の広場
中条氏の居館跡
このエントリーをはてなブックマークに追加

ページのトップへ