日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/06/04 10:05
松山から予讃線特急で2駅、25分ほど行ったところに内子駅がある。かつては五郎駅で分岐する内子線という盲腸線の終点だったが、昭和61年に向井原~内子間が新設されて今ではすべての特急が通る路線となっている。
内子は「和ろうそく」で有名だ。しかし、もともとは「白蠟の街」であった。ハゼの実からつくられる木蠟は、採取したままのものを生蝋(きろう)、日光に晒して純度を高め漂白したものを白蠟・晒蠟(さらしろう)という。
この白蠟の製法を発明したのが、内子の芳我弥三右衛門である。内子では藩政時代から木蠟を作っていたが、幕末に弥三右衛門が蝋花式箱晒法を発明すると、以後内子で白蠟の精蠟が盛んになった。芳我家は日本最大の精鑞業者となり、明治時代には「旭鶴」の商標で海外にも輸出していた。
芳我家は大きく栄え、本家の本芳我家の他、上芳我家など13家の分家があり、本芳我家と分家筆頭の上芳我家の住宅はともに国指定重要文化財である。
しかし、大正時代になると石油由来の安価なパラフィン蝋の出現や、電気の普及などで需要が激減、内子の製蝋業者は廃業を余儀なくされた。そして、その後木蠟をつかった和蠟燭が純植物性の蠟燭として人気を集め、現在では内子は「和ろうそく」で知られるようになった。
内子駅から10分ほど歩くと、八日市護国伝統的建造物群保存地区という古い街並みが見えてくる。この街並みの左手に本芳我家がある。
主屋には亀甲の海鼠壁や鶴・亀・波などの漆喰彫刻がほどこされ、土蔵には商標「旭鶴」の鏝絵がある。現在も子孫の方が住まわれているため一般公開はされていないが、見ることのできる外観と庭園だけでも、その豪勢な造りを知ることができる。
本芳我家からさらに進むと、右手に上芳我家の住宅がある。街道筋の上手にあることから「上芳我家」と呼ばれ、内子の製蠟業の最盛期であった明治27年(1894)に上棟された邸内には釜場、出店倉、物置などの木蠟生産施設も残されており、「木蠟資料館上芳我邸」として町が管理運営して公開されている。筆者はここで、「内子は本来白蠟の街だった」という説明を受けた。
この他にも、商店街通りには下芳我家の住宅もある。こちらも国の登録有形文化財に指定されており、現在は、1階は蕎麦屋とレストラン、2階はギャラリーに使われている。また、町の中心部には内子座という立派な劇場もあり、この町がいかに栄えていたかを物語っている。