人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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沼田と真田家

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2024/04/09 10:24

6日、群馬県沼田市を訪れた。

上越線沼田駅には六文銭と「真田の里 上州沼田」と書かれた幟が翻っている。戦国末期から江戸時代初期にかけて、ここは真田氏の所領だった。沼田城は利根川と片品川が削り取った河岸段丘上にある、天然の要害である。そして、江戸時代も沼田の城下町はこの段丘上に展開した。

明治になって上越線が建設された際、沼田の住民は街中に線路を引くことを希望したが、当時はこの急な段丘を登ることができず、段丘の下に沼田駅が設けられた。そのため、駅から沼田の中心街に行くには、駅東方にそびえる崖につく急坂を登らないといけない。

さて、江戸時代初期の沼田藩の藩主は、駅前の幟でもわかるように真田家だった。戦国時代の上田城主真田昌幸の長男信之は、関ヶ原合戦では徳川方につき、戦後上田と上野沼田で9万5000石を与えられた。のち信濃松代10万石に転じている。この真之の長男信吉が、沼田の3万石を分知されたのが沼田藩の祖である。

真田信之と小松姫

ところが、4代目信利(信直)は実高3万石にもかかわらず、幕府に「検地の結果14万4000石だった」と申告している。当時はこの石高に従って課役などが発生するため、ありもしない石高に対する年貢を強いられた農民は困窮した。

そのため、幕府から江戸・両国橋の架け替え用に命じられた木材供出に対して領民が協力せず失敗、真田家は改易された。なお、この際に藩領月夜野の農民杉木茂左衛門による5代将軍綱吉への直訴が成功したとされ、改易後茂左衛門は磔となった。いわゆる「磔茂左衛門事件」である。

沼田はこのあと一旦天領となり、本多家、黒田家を経て、江戸時代中期以降は土岐家が長く藩主を務めた。沼田城は残っていないが、城址には天守閣が5層の雄姿を誇っていたころに植えられたという樹齢400年の御殿桜がある。

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