日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2024/01/23 10:09
伊香保に続いて軽井沢を訪れた。といっても所謂「軽井沢」ではなく、その周辺部分である。
江戸時代、江戸から中山道で碓氷峠を超えると、浅間山の麓に軽井沢、沓掛、追分という3つの宿場が比較的近距離にあり、合わせて浅間三宿と呼ばれた。軽井沢宿は今の旧軽井沢、沓掛宿は中軽井沢、そして追分宿は今の御代田と中軽井沢の間にあたる。
「沓掛」という地名は各地にある。これは街道などが難所に差し掛かる地点で沓(草鞋)を履き替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願したことに由来するらしい。
確かに西からくれば沓掛は碓氷峠に差しかかる難所の入り口である。また「追分」も各地にある。「追分」とは街道の分岐点のことで、中山道もここから善光寺平に続く北国街道が分岐している。
こうした一般的な由来の地名だったせいか、中山道の宿場名にも関わらず、「沓掛」と「追分」という地名は早々になくなった。「沓掛」は市町村制施行前の明治9年に早くも周辺の村と合わせて長倉村となっている。明治43年に信越本線に駅が開業した際には宿場名をとって「沓掛駅」となったものの、これも長くは続かなかった。
というのも、隣の軽井沢が避暑地として人気となり、そのエリアがどんどん拡大されていったからだ。沓掛駅の北側も別荘地として開発が進み、昭和31年に沓掛駅は中軽井沢駅に改称されて「沓掛」という名称は消滅した(地名は軽井沢町長倉)。
追分宿は旅籠屋71軒に加え、最盛期には飯盛女が250人ほどもいたという中山道屈指の大きな宿場だったにも関わらず、別荘地の開発が進むにつれて、「軽井沢」に飲み込まれてゆく。
今でも地名こそ軽井沢町追分として残っているが、一般的には「西軽井沢」といった方が通りがいい。「軽井沢」の膨張はさらに進んで県境を超え、「北軽井沢」は群馬県長野原町である。
因みに、追分宿の旧脇本陣油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。宿内には堀辰雄文学記念館がある。