日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/12/06 10:58
先週紹介した飯能の能仁寺を訪れた後、その裏手にある天覧山に登った。ここは古くは愛宕山、或いは羅観山と呼ばれていたが、明治天皇が登頂したことから「天覧山」と呼ばれるようになった。駅から近くて登りやすいことから、ちょっとしたハイキング場所として有名。197mという標高の割には眺望がよく、この日も多くのハイカーたちがいた。
そして天覧山を一旦降りて、その裏手にある多峯主(とうのす)山にも登ってみた。こちらは271mで天覧山よりもさらに眺望がよく、天気がいいと富士山がよく見えるというが、この日残念ながらは雲の向こうに姿を隠したまま。
この多峯主山には、江戸時代中期に老朽化してきた能仁寺を再建した老中黒田直邦の墓がある。
黒田直邦は旗本中山家の生まれで、当時館林藩主だった徳川綱吉の家臣黒田用綱の養子となった。のちに綱吉が将軍となると、直邦は幕臣となり、次第に出世して大名に取り立てられた。そして8代将軍吉宗のもとでは老中をつとめている。
その子直純のときに上総久留里に転じ、以後黒田家は幕末まで久留里藩主として続いた。なお、この黒田家は近江の出といい、福岡藩主の黒田家とは関係がない。直邦は養子として黒田家を継いで大名にまで発展させたのだが、自らの出身である中山家の姓「丹治」を大事にし、直邦の墓碑には「丹治」という言葉が刻まれている。
このように養子によって家格が上昇した場合、養家の姓ではなく出身家の姓を名乗り続けることはそれ程珍しいことではない。黒田家は以後「丹治」姓となり、「寛政重修諸家譜」にも丹治姓として収録されている。