日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/11/14 10:31
熊野三山の一つ、熊野那智神社の入口にあたるJR那智駅近くに補陀洛(ふだらく)寺がある。ここは、補陀落渡海で知られていた。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポータラカ」(Potalaka)に漢字をあてたもので、南方にあった浄土のことである。そして、この補陀落を目指して海を渡るのが補陀落渡海である。南のかなたの海上にある浄土を目指すため、渡海の場所は南端の地が選ばれる。古くは足摺岬など何か所があったようだが、江戸時代には那智の補陀洛寺が渡海の場所となっていた。
もっとも古い記録は貞観10年(868)に渡海した慶龍上人で、以後江戸中期まで補陀洛寺だけで20回の記録が残っている。渡海をする際には、和船の上に入母屋造りの箱が置かれた屋形船のような船に乗り込むのだが、屋形船と決定的に違うのは、30日分の食物や水が運び込まれると、釘で打ち付けて外に出られないようにしてしまうことである。
そして、沖の島に引いていき、綱を切ってそのまま流してしまう。この島を綱切島といった。渡海船には艪や櫂などの航行のための道具は一切ないことから、渡海者を乗せた船は波に流されて戻ってくることはない。
当初はみな自発的に渡海したのだろうが、やがて形骸化するようになる。補陀洛寺の住職ならば渡海するのだろう、と。江戸中期、金光坊という僧侶は渡海船に乗せられたものの箱を破って脱出、近くの島に泳ぎ着くという事件が起きた。
しかし、島にいたところを見つかり、再び船に乗せて海に送り出されてしまった。この島は今も「金光坊島」(こんこぶじま)といわれている。
この事件は、井上靖の「補陀落渡海記」(短編集『楼蘭』所収)に書かれている。帰宅後、40年振りくらいに改めて読み直してみた。金光坊が渡海船に乗せられたのが61歳。筆者は現在62歳。いろいろと考えさせられる話である。