日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/10/31 10:13
富山も北前船の寄港地である。ただし、富山城下は海から遠く、湊は城下の北にある岩瀬であった。
富山駅から、富山地方鉄道の路面電車で岩瀬方面に向かう。かつてはJR富山港線という鉄道路線だったが、富山駅付近の路線を付け替えて第三セクターのLRTとなったものだ。令和2年には富山地方鉄道に吸収合併され、同社の他の路線にも乗り入れることで便利になった。旧国鉄から分離して成功した一例である。
早朝にホテルを出て、まずは終点の岩瀬浜駅まで乗り海岸に出てみた。浜辺では釣りをしている人がちらほらと見える。
ここから歩いて東岩瀬に戻る。かつて栄えた湊町には旧家が残り、そのうちの馬場家と森家が公開されていた。馬場家は「岩瀬五大家」の筆頭に挙げられ、北陸の「五大北前船主」の一つでもある。天保4(1833)年に7代目久兵衛が北前船に乗り出して成功したのが祖で、明治時代には海運業を中核とする地方財閥に成長した。
大正8年、33歳で夫を亡くした馬場はるは、以後当主として馬場家を切り盛りした。なかでも、旧制富山高等学校を設立するために多額の寄付をしたことが有名。地方の豪商達は、ただお金を稼ぐだけではなく、その財力を地元の発展のために還元することを旨としていた。明治期には人材の育成こそが緊急の課題であった。
そこで各地の豪商達は次々と学校を設立して、有為な人材を送り出した。進学校として有名な灘校は灘の豪商嘉納家が創立したものである。旧制富山高校は現在は富山大学となって移転、跡地は馬場記念公園となっている。