日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/10/17 10:51
紫式部公園から武生駅に戻り、1日に6本しかない「かれい崎行き」というバスに乗る。このバスで30分ほど行ったところに、織田という場所がある。今では越前町の一部だが、平成大合併の前までは織田町という独立した自治体だった。因みに、この地名は「おた」と濁らない。
織田パスセンターの一つ手前の「明神前」バス停で降りると目の前が劔(つるぎ)神社だ。ここが織田信長のルーツで、境内には「織田一族発祥地」という碑が建てられている。また、バスセンターの近くの交差点には織田信長の銅像があり、「信長通り」という道まである。
織田氏は平姓を称している。というのも、『織田家譜』などによると、源平合戦で平氏が滅亡した際、壇ノ浦で自害した平資盛の妻は、幼児だった親真を抱いて近江国蒲生郡津田荘(滋賀県近江八幡市)に逃れ、のちにこの親真が越前国敦賀郡織田(福井県丹生郡越前町織田)の劔神社の神官の養子となって織田氏を称したとなっているからだ。
しかしこれは伝説にすぎず、現在では忌部氏の一族という説が有力。一時は祖親真の実在も疑われていたが、平成23年に親真の墓が越前町で発見されている。
のちに織田荘の荘官となった織田一族はやがて守護斯波氏の被官となり、次第に勢力を蓄えていったものとみられる。そして室町時代に斯波義重が尾張守護を兼ねると、織田常昌がその守護代に抜擢されて尾張に転じ、尾張織田氏となった。
尾張の織田氏は、嫡流の岩倉織田家(伊勢守家)と庶流の清洲織田家(大和守家)に分裂して争った。信長は清洲織田家のさらに分家の出である。