日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/05/23 10:06
コロナも落ち着いてきたところで、積極的に各地に出かけている。基本的に野外を歩くため、暑くならないうちに行っておこう、というのも強い。少し前になるが、滋賀県の湖東・湖北地区にも出かけて来た。場所は近江鉄道の沿線である。まず向かったのは、尼子駅。その名の通り、ここは山陰の戦国大名尼子氏のルーツの地である。
尼子氏は宇多源氏京極氏の庶流で、京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町尼子)を与えられて、尼子氏と称したのが祖である。
その後は、長男詮久が尼子郷を相伝し、二男の持久は出雲に下向して出雲尼子氏となった。出雲に転じた尼子氏は後に山陰を制覇する大大名に発展したが、本来嫡流である近江尼子氏のその後の活動はよくわかない。
出雲尼子氏は、もともとは京極氏のもとで出雲守護代だったとされる。しかし、応仁の乱で守護京極持清が東軍に属して転戦したことから、清定が出雲を守って活躍。以後月山富田城(島根県安来市広瀬町)に拠って山陰に大きな勢力を振るった。
経久は大永年間(1521~1528)には出雲・隠岐・伯耆西部・石見東部を支配していた。経久の跡を継いだ晴久(詮久)は南下して安芸に侵攻し、一時山陰・山陽合わせて8ヶ国の守護を兼ねた。
さてこの尼子の地だが、読み方は「あまご」。近江鉄道の駅名標にも「あまご Amago」と書いてある。従って、山陰尼子氏も「あまご」が正しいとされる。
昭和63年、滋賀県教育委員会がこの地に土塁と堀跡を発見、これが室町時代の尼子氏の居館跡の一部であることが発表された。現在は土塁、堀跡の一部を保存・修復して、土塁公園となっている。