日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2023/03/14 10:55
NHK大河ドラマ「どうする家康」に角田晃広演じる松平昌久という人物が再登場していた。吉良義昭とともに三河一向一揆方に与した際、武田信玄の間者である望月千代に「松平一族の惣領になれる」とそそのかされていたが、松平昌久とはそもそもどういう素性の人物なのだろうか。
松平昌久は三河松平氏の一族だが、家康の属している安祥松平氏とは違い大草松平氏という一族である。松平氏は室町時代に三河一帯に広がった有力一族で、一四松平とも一八松平ともいわれる多くの庶流があった。安祥松平氏も大草松平氏もこうした庶流の一つで、いずれも本来は分家であった。
安祥松平氏は松平氏発展の基礎を築いた松平信光の三男親忠、大草松平氏は信光の五男光重が祖で、ほぼ同じ時期に生まれた庶流である。光重は額田郡大草(幸田町大草)を本拠として大草松平氏と称し、のちに岡崎に進出して岡崎松平氏とも呼ばれた。
一方、安祥松平氏は三河に侵攻してきた今川氏を本家にかわって撃退したことで松平一族の惣領となると、清康は大永4年(1524)に大草(岡崎)松平氏の昌安を追って新城を築いた。そして、岡崎城を本拠として松平一族を統率し、以後松平氏は三河を代表する氏族に発展した。
岡崎を追われた昌安は、本来の本拠である大草に戻った。この昌安の子が昌久である。つまり、昌久にとって安祥松平氏とは父の代に岡崎城を奪った仇敵であり、松平一族の本拠となった岡崎城は自分が継ぐはずだったということになる。
こうした経緯もあり、三河一向一揆が家康に叛くと昌久は吉良義昭に与して東条城に籠城して家康勢と戦った。そして、翌年に東条城が落城するとそのまま逐電したといわれる。
なお、大草松平氏は昌久の孫の正親の代に復権し、江戸時代には子孫から水戸藩家老を務めた人物も出ている。しかし、同家の家譜では昌久は「七郎某」とだけ記され、実名も事績も一切書かれていない。