人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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梶原景時を討ち取った武士のその後

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2022/07/26 10:06

(画像はNHK公式サイトよりキャプチャ)

24日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、13人の一人梶原景時が退場した。

連判状が作られた経緯はコメディ調で描かれていたが、一夜のうちに66人もの連判状が作成されたのは事実で、よほど御家人層に恨みをかっていたのだろう。ドラマ中ではその最後の様子は描かれず、北条義時が追討を指示したところで終わっていた。

実際には梶原一族は京を目指して西上途中に、駿河国清見関(現在の静岡市清水区)で在地武士吉香友兼によって、一族33人が討ち取られた。

この吉香友兼とは工藤氏の一族の御家人で駿河国有度郡入江荘吉川(きっかわ)に住み、「吉香」「吉河」「吉川」などを名字として名乗っていた。友兼はこの戦のけががもとで死去、孫の経光は承久の乱後に恩賞として安芸国山県郡大朝荘(広島県山県郡北広島町)の地頭となり、この頃には名字は「吉川」に統一されていた。

それから300年後、吉川氏は安芸国の有力国衆に成長していた。そして、毛利元就の二男元春が継いで吉川元春となり、実弟小早川隆景ともに毛利氏を支えることになる。江戸時代には岩国藩主となったが、その発展のきっかけは、このときに清見関で梶原景時を討ち取ったことである。

 

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