宗教思想や葬送文化の研究者、はたまたデヴィッド・リンチ・マニアの哲学者として熱狂的ファンを持ち、「内藤仙人」と親しみを込めて呼ばれる内藤理恵子氏。この度上梓した意欲作『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』に載せられなかった「あとがき」をここに掲載します。
「死」を前にして、くるくる回るしかなかった私
さまざまな哲学者、宗教者などの死生観を探った本書は、信仰のあるなしに関わらずフラットな気持ちでお読みいただける「死」についての哲学本に仕上がったと思います。また本書は、私自身の死生観を展開するものではなく、博物誌的かつ哲学的読み物として気軽に手に取っていただけるものになるように努めました。
ならば筆者自身の死生観は? と思われる方も、もしかするといらっしゃるかもしれません。ここでは自己紹介を兼ねて、私自身の死生観をお話ししたいと思います。
思い返して脳裏をかすめるのは36歳の時に受けた開腹手術の経験です。その前の年、テレビの通販番組で買った「後ろに体を倒すだけで腹筋運動ができるマシン」で腹筋運動をしている時のこと、お腹に硬いシコリがあることに気がつきました。ゴリゴリとした握りこぶし大のもので、もしも悪性の腫瘍なら? と考えると気分が沈みました。とはいえ、仕事が忙しかったこともあり、つい放置してしまった結果、いよいよ体のあちこちが痛くなってきて、「病院に行ったら即入院だろうなぁ」と考えるようになりました。
その時にとった行動というのが「東京ディズニーランドに行ってみよう!」という、なんとも「おめでたい」ものでした。入院したら夢の国にはなかなか行けないだろう、と考えてのことです。節々の痛む体を引きずって、一人で夜のディズニーランドに行き、くるくると回る乗り物に乗ってみたのです。アトラクションの中を進んでいくと、そこには「鏡の間」がありました。そこでくるくる回る己の姿を見て思いました。
「同じ場所でくるくると足踏みか。これまでの私の人生みたいだ……」
と、あらためて暗い気分になったのでした。
「死」について考えた
大学、大学院と、それまで知識として哲学や宗教思想を学んでいたことと、自分がいざ死を感じる場面に遭遇した時にどう考えればいいのかをつなげて考えてみる練習ができていなかったのだと思います。さんざん哲学書を読んでいても、宗教学を学んでも、自分の死が頭をよぎったことで思考が停止してしまい、文字通り不安の中を「くるくる回る」くらいしか選択肢がなかったわけです。
これは、私に限った話ではなくて、死を意識した時に人間がとる行動というのは、何か別の刺激で不安を麻痺させようとか、死ぬ前に特別な思い出を作ろうという気持ちが先行してしまい、この機会に死について学ぼう、なんて余裕はないものです。ましてや「やり残したこと」を実際にやりながら難解な哲学書を読むなんてことは至難の技です。
体験してみるとわかりますが、長時間の開腹手術を伴っての入院生活は痛みや不安に心を支配され、読書も難しい状態に陥ります。特に手術後は痛みで座ることも眠ることもままならず、テレビのチャンネルを変えることも、水を飲むことも一苦労。読書にまで手が回らないのです。幸いにも私のお腹の腫瘍は良性のものでしたが、計10個にもおよび、全身麻酔の開腹手術で除去しました。
日常に戻った私は死について思索を重ね、カジュアルに学ぶことのできる死についての哲学書の執筆にチャレンジし始めました。しかし、執筆作業はテーマがテーマだけに予想を遥かに超えた苦難の道であり、何回も書き直しを重ねました。イラストも推敲を重ね、より深く、わかりやすい哲学書にするために工夫を凝らしたつもりです。
似顔絵師が体感したフッサール現象学
特に苦慮したのは、信仰を持たない人にいかに宗教系哲学を解説するか? という点です。実存主義の元祖であるキルケゴールをスタート地点に据えたのは、彼の思想の根幹をなす、キリスト教思想をまずは説明する必要があると思ったからです。しかし、キリスト教の復活信仰は日本人にはなかなか馴染みがありません。私は中学からカトリック系の学校で教育を受けたため、たまたま聖書に馴染みがありましたが、キリスト教を知らない人、信仰を持たない人にも、「復活とは何か」を提示することから始めなければなりません。
それを助けてくれたのは、私のイラストレーターとしての経験でした。聖書解説から始めるとそれだけで分厚い書籍になるため、わかりやすいイラストや図で解説を加えることで、端的にその説明が可能になりました。
哲学者やその思想も似顔絵やイラストにすることで、グッと身近に感じていただけると思います。幼いころから人の似顔絵を描くことが好きだった私は、大学の哲学科を卒業した後、似顔絵師としてショッピングモールで即興似顔絵師をしたりイラストの仕事をしたりしていました。周囲とのコミュニケーションが苦手な私にとって、似顔絵を描くことは他者に感情移入するために必要な確認作業でしたが、似顔絵師の経験は、本書でフッサールの現象学における「間主観性」という概念を説明する際に役立ちました。
イラストレーションは言葉では伝わりづらいことを伝える有効な手法です。本書には、哲人たちの思想や死生観を説明するイラストをふんだんに盛り込みました。もちろん似顔絵も。
イラストを通じて「思わぬ角度」から「わかる!」が閃く哲学入門書に仕上がっているならば、著者としての喜びこれに勝るものはありません。
思想家・手塚治虫を発見する
「思わぬ角度」といえば、サブカルチャーも大いに盛り込みました。たとえば手塚治虫が、漫画『ブッダ』において、いかにして釈迦の教えと自身の思想をリミックスしていたかを見直しました。
問題は、手塚治虫『ブッダ』と比較する仏教思想をどのように定義するか? ということでした。というのは、日本の仏教は複雑化しており、特定の経典や特定の宗派の釈迦像を論拠にすると、哲学の一般書にしては宗教色が強くなりすぎるのです。そこで、仏教哲学者の中村元による釈迦の伝記と手塚治虫『ブッダ』を比較し、大局的に現代人の宗教観を描くことにしました。そうした手法によって、哲学者・思想家としての手塚治虫を発見できたことは、本書執筆の成果であったと考えています。
一方で、釈迦とは別の章を設けて、空海の死生観について特記したことには理由があります。「空海はいまも生きている」という信仰が現在でも進行形で存在していますが、こうした実在した思想家が、数百年を経ても「実際に生きている」と人々に信じられているというのは全世界的に見ても稀だからです。
ちなみに、私はいま、空海が修行をした高知県室戸岬にいてこの原稿を書いているのですが、熱心に遍路旅をしている外国人に出会いました。国や宗教を超えて、「同行二人」という特別な思想が現在も生きているのを目の当たりにして、やはり空海の死生観に本書で言及したのは正解であったと思いました。
「死」は手強いけれど
こうした、哲学ばかりか宗教にも言及した書籍が、日本実業出版社というビジネスや経営関係に強い出版社から発行されるということに、驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。「いくら終活流行りとはいえ……」と首を傾げるビジネスパーソンもいるかもしれません。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いのビジネスパーソンでも、死は克服できません。
そして死生観を語る上では、哲学者だけではなく宗教家の言葉にも耳を傾ける必要があります。死とは、経営戦略のような具体的戦略を見出せない、人類にとって普遍的かつ手強い問題なのです。
たとえば、ビジネスパーソン向けのメンタルコントロールのひとつに「不安をノートに書き出してみる」という方法がありますが、たとえ不安解消をTODOリストに落とし込んでも、死への不安だけは先送りにすることになるでしょう。しかし、それをあえて先送りにせず、先んじて死について考える機会を持ってみてはいかがでしょうか。死と真正面から向かい合い熟考することは、いまの人生を変える劇薬になるかもしれませんが、もしかしたら、生き方を変えるための「考え方」を手に入れられる行為かもしれません。
忙しいビジネスパーソンにとっては難解な思想書を前に晴耕雨読というわけにもいかないでしょうが、本書のようなカジュアルな哲学書をご活用いただければ、と思います。カジュアルといえども、もちろん哲学的な発見や深掘りも盛り込んだユニークな一冊となっております。ぜひお気軽に、お読みください。
著者プロフィール
内藤理恵子(ないとう・りえこ)
1979年愛知県生まれ。
南山大学文学部哲学科卒業(文学部は現在は人文学部に統合)。
南山大学大学院人間文化研究科宗教思想専攻(博士課程)修了、博士(宗教思想)。
現在、南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。