日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2018/10/15 09:41
先週急きょ「本庶」について書いたため、今週は先々週を引き継いで、旗本の勝家について書いてみたい。
勝家は旗本とはいいながら、禄高はわずかに41石。あまりの小禄に御家人といわれることも多いが、41石でも三河以来の旗本であった。旗本と御家人の違いは、将軍に御目見できるかどうかであって禄高による境界線があるわけではない。御目見以上の幕臣の系譜を集大成した「寛政重修諸家譜」にも記載されており、それによると物部姓で、近江国勝村をルーツとするという。当初は御家人で、途中で旗本に昇格したものだ。
しかし、海舟の父小吉は勝家の生まれではなく、旗本・男谷平蔵の三男で婿養子となって勝家を継いでいた。男谷家は旗本だが、平蔵の父・銀一は、越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人で、武士ですらなかった。
銀一は江戸へ出て高利貸しで成功して巨万の富を得、朝廷より盲官の最高位である検校を買官して「米山検校」と名乗り、三男の平蔵には御家人・男谷家の株を買い与えている。江戸時代後期には、旗本や御家人の家は事実上売買されていた。こうして御家人となった平蔵はのちに出世して旗本となったのだ。
つまり、血縁的には、貧農-検校(曾祖父)-旗本・男谷家(祖父)-旗本・勝家(父)という流れで、身分制度の厳しい時代にありながら、貧農の玄孫が大政奉還という日本史上の重要な役割を果たしたことになる。